何も意味しないとき、静かに朝を待つ(下)

イリナ・グリゴレ

気付いたら彼女は電車に乗っていた。座っていた。東京のラッシュアワーの電車に乗る状態ではなかったが、彼女は昔から身体だけを動かすのは得意だった。どんな大変なことが起きても、何日間熱で苦しんでも、身体を動かしてゴミを捨て、パンを焼いて、洗濯物を干して、またベッドで倒れる。彼女の身体には彼女以外の生き物たちが宿っていたこともあると言える。菌類、虫から、目に見えない、想像しかできない生き物まで毎日のように彼女の身体を借りていた。だから、酒を飲むと自分の父親になりきって暴れ、父親と同じ喋り方する。電車に乗ると、ぎっしり混んでいたのにちゃんと彼女の座る場所があったことも不思議だった。人の汗とフローラルな柔軟剤の匂いでホテルにいる間に感じた吐き気が強くなった。寒気で内心が震えていた。

彼女の前に立っていたサラリーマンは自分のスーツケースで彼女の足を触らないように気を遣った。彼女はこういう人が優しいと思った。本当に優しいかどうかはわからなかった。彼女がすごい顔をしているので、怖かっただけかもしれない。頭の中で、あの人に質問をかけ始めた。
「もし、ホテルの部屋に死に近づく人がいたら、助けてあげるの? 逃げるの? どっち?」
「もし、雨水でいっぱいになったバケツに蜂が落ちて溺れそうになった瞬間に手にとって自ら出してあげる?」
「もし、羽を無くしたトンボを道端に見かけたら、踏まれないようにそっと草の中に置く?」
「もし、車に撥ねられた子猫にあったら動物病院に連れて行く? 高いシャツと鞄がその子猫の血で汚れても?」

電車が渋谷に着いたから、彼女は膝を震えさせながら降りた。山手線からバス停にどうやって出るのかわからないまま人波に吹かれて、その時に足で歩いているのではなく、昔に見た妖怪の絵のように浮いていると思った。携帯を出してナビで行き先を探し始めようと思ったが、行き先がわからなくなる。自分の身体に導かれるしかないと思いながら、ほぼ1ヶ月前に行ったコンビニの前に立った。あの時、コンビニの前には誰かの吐瀉物があった。彼女は赤いワインを選んだ。店員さんはニヤニヤしていた。コンビニで水を買って、エレベーターに向かって、5階のロビーから空港へのリムジンバス停に出る。時間がまだ早かったからずっとベンチに座って待つ。なぜか1ヶ月前と同じ場所に同じ状態でいる。もしかしたら、身体は同じことを繰り返すのが好きかもしれない。同じトラウマ、同じ踊り。

待合室に大きなスーツケースを持って、ダンサーのような髪の毛が黒くて脚が長い、ミニスカート姿の女性が入った瞬間に空気が変わった。彼女はバス停のスタッフに英語で話しかけて、バスの予約をしようとしたが通じなかったみたいで、携帯の通訳アプリを使ってコミュニケーション取り始めた。待合室で同じ空気を吸っていた二人の女性は見た目は違っていたが、まるで同じような生き物だった。二人とも空港ではなく違う惑星に脱走しようとしていた、と彼女は思った。その次の瞬間、彼女のスマホから突然にレディオヘッドの曲 『Exit music (For a film)』が流れ始めた。「We hope that you choke, that you choke」

何ヶ月か前に、岩盤浴に行った時を思い出した。温泉で綺麗に身体を洗ったあと、少し離れていた岩盤浴の部屋まで裸で歩いて、横になった。そしたらその時に天井に自分の姿が映されたがタコのように脚がいっぱいあったと思った。また、彼女は二人の娘といつもいっしょに寝ているが、娘の小さな身体が彼女にくっついて、どこまで自分の身体なのか、娘たちの身体なのかわからなくなる。6本脚と6本腕、60指、3頭、6眼、3口の生き物になると感じる。でもこの状態は嫌いではない。人間の普通の姿とはただの幻想なのだ。きっと、もっと複雑でもっとデフォルメな形だと知っている。みんなはただの嘘つき。

あの日から彼女は人と目を合わせないことにした。そして髪の毛をもう切らないと決めた。特に男から距離を取ることにした。じつをいえば、彼女は生きている間、一度でいいから男の子の赤ちゃんを産みたかった。どこかで聞いたけど、日本の平安時代では男の子を産むと地獄に行かないと思われていた。いつ頃からか彼女もなぜかそれを信じ始めたのかもしれない。そうではないかもしれないが、なぜか、自分の身体で男を生み出したかった。そうすることによって救われると思っていた。深い闇から。

昔、祖母の家でたくさんの蜂とアリ、子猫と犬を溺れから救ったことを思い出した。雨が降っていると虫はどこで隠れるのか? バケツに溜まる雨水の音を思い出した。あの雨水で髪の毛を洗うと光っているように見えた。夜光茸のように。

夢の中では、祖父母がいつも寝ている部屋に二人の男の遺体があった。近づくとまだ生きているようだった。でも皮膚も肉も骨が見えるまで焼けていて、焼けた人間の肉の匂いがする。酷い匂いだ。

夢の中で彼女は森を歩いた。この森は何度も訪ねた村の森だった。でも下を見ると地面の落ち葉に青い火が燃えていた。彼女は怖がらずその火の中を歩いた。彼女はこう思った。何も意味しないとき、燃えている森の中を裸足で歩いて、静かに朝を待つ。彼女は毎日のように自分を壊して創り、また壊して、創り、虫になって、森になって、キノコになっていた。彼女の姿は誰も知らない。