冬枯抄

越川道夫

引っ越したばかりの仕事場のすぐ裏に、土埃が舞わないように黒いシートで覆われた空き地がある。シートで覆われているというのに、その隙間から、シートを押さえるために置かれた土嚢の布を食い破るようにして様々な草が顔を出している。
今は冬。あらかた枯れてしまった草の中から、どういうわけか西洋鬼薊がひと群、大きく育って青々とした葉を茂らせている。狂い咲きとでもいうのだろうか、少し暖かな日が続いた頃、次々に十幾つもの紫の花を咲かせていった。
ただでさえ寒いと言われたこの冬である。暖かな日はそうは続かず、気温は急降下して、冷たい雨が降り、雨は雹まじりに、夜更けから降り始めた雪は朝方まで続いて、薊の上にも白い帽子を被せていったのである。両腕で一抱えもある大きな株ではあったが、花をつけたまま立ち枯れていくことになった。
花が終わって、種子を飛ばし始めたものはまだいい。それに満たないものたちは、紫の色を花に残したまま枯れていった。やがてあれほど青々していた葉も、太い茎も、緑の色をわずかにして褐色に変わっていき、今では手で触れるとポキポキと折れるほどにまで枯れた。
 
その大きな西洋薊が立ち枯れていく様を、私は、毎日飽きることなく眺めにいく。
座り込めば、私ほども大きな薊が枯れていく。
その姿が、あまりに美しい。
枯れた茎は、茎自身の重さに耐えられなくなり、花をつけたままのものも、まだ蕾のまま枯れたものも、やがて地面に向かって日に日に首をたれ、一本また一本と黒いシートに横たわっていく。花の周りの萼とでもいうのだろうか、枯れた額は、どこか金属を思わせるようなメタリックな金色となり、夕陽を浴びた時などは、日を照り返して光り、この上なく美しい。
 
冬枯れが好きである。
寒いのに、外套に身を包んで、冬枯れの河原や草叢にいそいそと出かけていく。植物の種を体と言わず足と言わずいっぱいにひっつけながら枯れ草を掻き分ける。そして、立ち枯れた植物の姿をいつまでも眺めるのだ。背高泡立草が枯れているのもいい。花が落ちた後に萼だけを残して枯れているのもいい。もちろん、今を盛りと繁茂し、花を咲き乱れさせている植物の姿も好きだが、立ち枯れた姿がそれよりも美しく見飽きない。枯れてしまえば、草は、その草の意志を離れる。草の意志と書いたが、茂っている草は、その草の望む形に自らを成長させ、その生のデザインに向かって自己を実現しようとする。それは、草の意志だ。気温や、雨や、風や、諸事象の影響を受けたとしても、草は自らのデザインを完結しようとする。しかし、枯れた草は、その意志から離れ、様々な事象の影響を受け、なすすべもなく歪み、捩れ、朽ちて、それぞれにその姿を晒す。その意志から離れた様が、意志から離れているがゆえに美しい。盛っている草よりも、意志を実現し、コントロールの中にいるものよりも、もはやなすすべがなくなったものに私はいっそう美しさを感じるのである。屁糞葛の小さな実は、黒ずんでいるのがあるかと思えば、白骨のように白く朽ちていくのがある。黄烏瓜の実は、皺皺に折り畳まれるように縮んでいくのがあるかと思えば、まるで古い陶器のような風合いで朽ちていくのがある。
 
私は、明日もまた立ち枯れていく大きな西洋薊の姿を眺めにいくだろう。
彼女が、すっかり朽ちて倒れきってしまうのを、「どこにも行かないよ」と呟きながら見届けたいと思うのだ。