谷中を抜けて千駄木へ向かう辺りには猫がたくさんいると聞いて、アルバイトを探しに出かけた。上京してから大学とバイトに明け暮れて気がつけばもう二年が過ぎようとしている。実家の徳島にも一度も帰らずにいることで、時折かかる母親からの電話は結局最後に口論となってしまう。なぜ帰らない。忙しいから。なんとかなるはずでしょ? なんともならないよ。お正月くらい帰れるでしょう。正月だから忙しいっていうバイトもあるんだよ。と交互に言い合って、最後は母が話をしている最中に僕がそっと電話を切るという流れがいつもの定番になった。
バイト先はラーメン屋なのだが、オーナーが近所でカフェも経営していて、その両方を手伝ってきたことで、本当に空き時間など全くないほどに働いてきた。当然、お金を使う暇もなく、僕はこの二年でそこそこのお金を貯めて、やっと人心地付いた気分なのだった。帰って来いと声を荒げる母親だが、仕送りなどはほとんどなく、僕が自分で家賃と生活費を稼がないと始まらない。奨学金も借りているので、ちゃんと卒業して、ちゃんと稼ぐことが最初から定められているといってもいいだろう。そして、そんな日々を僕は特に恨みもせず、そこそこ楽しく過ごしている。
楽しんではいるけれど、まさに東京での暮らしが二年目を迎えるという今現在よりも半年ほど前はもっと楽しかった。何があったのかというと、一瞬彼女が出来たのだ。それまで女の子と付き合ったことがなかった僕は、僕と付き合う女の子がいるとは思わず、彼女が出来たということそのものが嬉しくて仕方がなかった。いや、嬉しいと言うよりも驚き感動していたのかもしれない。
しかし、そこまで喜んでいたのにどうして彼女がいる時期が一瞬だったのか。そこに謎が集約されてしまうことだろう。僕は四国の徳島の高校から東京の大学に入り、バイトをしなが真面目に暮らしていた二年目の夏に彼女と付き合い約二週間で別れたのだった。
彼女はバイト先に僕より半年遅れで入ってきた。最初に見た時から綺麗な顔立ちだなと思った。店長やオーナーと彼女のやり取りを見ていると首をかしげることが多かった。少しコミュニケーションが弱いのかも知れないと僕は思っていた。いや、なにか変なことをするわけではない。ただ、受け答えが少し変わっていた。例えば、店長から接客についての説明を受けているときに、急に手をあげて質問したことがあった。目の前の大人とマンツーマンで指導を受けているときに、いくら質問があったとしても思いっきり右手を天井に向けて素早く差し上げた人を僕は見たことがなかった。まるで自衛隊員のように素早い挙手だった。思わず、店長が驚いて絶句していたけれど、そばにいた僕も驚いていた。
また、ある時にはお客様から彼女が質問されるという場面があった。
「あ、半チャーハンがあったのか。だったら、さっき注文したチャーハンを半チャーハンに変えてもらってもいいですか」
客はそう聞いたのだった。それに対して、彼女はこう答えたのだ。
「どうしてですか?」
僕はよくわからなかった。そして、お客さんも同じようにわからなかったようだ。それはそうだ。もう作り始めているので、いまから半チャーハンに変えることはできません、という答えならわかる。いや、作り始めていなくても、お客様が神様なら嫌な顔一つせずに、わかりました、の一言でいいはずなのだ。それなのに、彼女は「どうしてですか?」と客に質問したのだ。そして、質問などしなくても答えは明確だ。チャーハンは多すぎて食べきれないかもしれない、と客が思っただけの話だ。普通、食べきれなければ、勝手に残せばいいのにと思うのだがわざわざ自分の危惧を彼女に伝えてくれたのだ。そんな、善良な客に彼女は「どうしてですか?」と質問返しをしたのである。
僕はその時に、この子はちょっと危ないかもしれないと感じたのだ。そして、同時に彼女のことを好きになった。好きになったというよりも惹かれてしまったのだ。彼女がアルバイトに来る日は彼女の一挙手一投足から目が離せなくなった。そして、僕のそんな様子は店の中でも評判になり、店長やオーナー、先輩のアルバイトたちから冷やかされるようになってしまった。冷やかされても僕は彼女を見つめ続けた。もちろん、仕事はちゃんとしていたが、客の水の量を確かめるよりも、彼女の顔かたちや振る舞いを見つめ続けた。
そんなある日、彼女は店長からお使いを頼まれた。予定よりも客の来店が多く、ネギが足りなくなりそうだったのだ。店長は彼女に近所のスーパーから青ネギを買ってくるように命じたのだ。近所のスーパーまでは歩いて十分ほど。僕は彼女がスーパーで青ネギをカゴに入れ、精算を済ませて帰って来る時間を見計らって、店長に休憩します、と声をかけた。店長の赦しが出ると、僕は店の表に飛び出し、彼女を出迎え、そっと店の厨房に続く入口の方へと誘導した。
彼女は頼まれた青ネギを袋にも入れずに手づかみで思いっきり握っていた。僕は彼女が力任せに掴んでいるネギを救おうと、彼女の腕を掴んで前に出させ、その手の指を一本ずつ外した。僕も力を入れて一本ずつ外していく。まず、人差し指を外す、彼女が苦痛に顔を歪める。僕は中指を外す。さっきよりも力が入っていて、外すとき、彼女は少し声を出した。次に薬指を外しにかかった。まだまだ力は入っていたが、中指よりはましだった。それでも、彼女はまた苦痛に顔を歪めて、さっきよりも大きな声で、やめて、とつぶやいた。僕はその声に興奮してしまい、最後の小指を外そうとした。すると、彼女は今度は思いっきり抵抗して、小指をくねくねとくねらして、僕に外させまいとするのだった。僕はそのくねくねする指を動かないように、僕の両手全体で包むようにした。彼女は目を閉じてじっと動かなくなった。そして、僕の掌の中で、彼女の手の体温が数度、驚くほどあがったのを感じたのだった。
僕の掌の中で彼女の熱くなった指はまるで彼女とは別の生き物のように動いた。その動きに合わせて、僕は高まり、彼女を抱き寄せてキスをした。キスをする瞬間、彼女は目を開き、僕の顔をじっと見つめて、もう一度目を閉じた。僕はもう迷うことなく唇を付けた。彼女の口の中へ舌を入れ、動かすと彼女も舌も僕の舌に絡みついてきた。
互いに高まり、互いに認め合い、そして、互いに受け入れ合った感覚に僕は震えた。震えながら、急に割れに返って、店長やオーナーにみつからないかとおたおたし始めた。しかし、相手も喜んでいるんだからと僕はもう一度キスをしようとしたのだ。その瞬間だった。さっきまで一緒に目を閉じて、舌を絡め合っていた彼女がふいに僕の目を真っ直ぐに見ながらこう言ったのだ。
「どうしてキスしたんですか?」
その言葉は僕の身体から熱を奪い、背中に冷水をかけた。キスに理由なんかない。お前も舌を絡めてきたじゃないか。そう思いながら、動揺が激しすぎた僕は、彼女の肩を乱暴に押した。彼女は少しふらついたのだが、その瞬間うっすらと笑っていた。その笑いがふらついたことの照れ隠しなのか、僕への冷笑なのか理解できなかった。
僕はその瞬間にそのラーメン屋から逃げ出した。それから何日経っても、店長もオーナーも連絡してこなかった。
この間、見たテレビで谷中から千駄木辺りの町が紹介されていた。この辺りには猫が多いらしい。猫が多いと聞くと、僕は「どうして猫が多いのですか?」と問い返しそうになっていた。そう、あの日以来、僕は「どうして?」と問いかけてしまうのだ。もちろん、なんとなくあの日の彼女から受けた衝撃を自分自身で和らげるための自己防衛作なのだが…。しかし、あれから数ヵ月経って、僕はあることに気がついていた。「どうして?」と問いかけ続けると、そこに理由などなくても、なにか理由があるような気がしてしまうのだ。いや、きっとそこに理由があるのだろう。そんな理由などに、僕は微塵も興味なんてないけれど。