初恋と結婚した女(上)

イリナ・グリゴレ

男に殴られたのはその時が初めてだった。男だけではなく、それまでの人生で誰にも殴られたことがなかったので、初めてのときのことをよく覚えている。その日は自分の結婚式だった。そのあとからずっと殴られるような日々が当たり前のように、日常の一部になったせいかあまりよく覚えてない。発熱の時の熱冷ましを飲んだ後とよく似ている、この感覚。もろもろして吐き気があるけど歩ける。自分を失うというより、どうしても元々自分というものが既にこの世に存在していなかったという感覚なのだ。

価値のない、何か、アスファルトに潰されたミミズのようなペタンコになった生物が乾いて、消えていく。そんな感じ。それだけ。ミミズの記憶と細胞がアスファルトに入る。雨ふるとそのアスファルトから湯気が出て、空に登って雲になり、また雨降ったら地面にいるミミズの一部になる。その繰り返しの人生。二人の子供を育て、笑って、食べて、太って、泣いて、仕事して、料理して、ただ忙しく過ごす毎日だった。殴られた跡、愛された跡と同じ、ほぼ残らないし、誰も知らない。自分自身もそんなことがあったかどうか覚えてないが、自分の身体が反応することを否定できなかった。例えば物忘れが激しいところ、家に帰りたくないところ。仕事が終わっても長い買い物と近所周りで小学生の子供を連れて冬でも足が霜焼けになるまで歩く。歩き方も早すぎて、食べ方も同じということも関係している。食べる時に、ほぼ噛めない。喉が詰まったことが何度もある。脳に酸素が届いていない感じが毎日ある。あとはよくため息が出る。怖くて、脳のCTスキャンをしなかったけど、きっと脳に何かが溜まっている。消しゴムのカスのようなもの。

結婚式のことも殴られたこと以外にあまりよく覚えてない。昔からこの忘れっぽいところがあったと思うほど、自分で自分の記憶を消しているように物事を忘れていく。まるで、この世のことを何も覚えていないままあの世に帰ろうとしているのではないかと自分も思う。例えば、子供の頃、過ごした家のこと、自分の両親のことは覚えているが、その後のことを覚えていない。暖かい家庭という言葉はよく当てはまるが、その温かさ以外のこと、二人の顔以外のこと、60過ぎた今ではよく覚えていない。畑の手伝いをしていたこと、大きな犬を飼っていたこと、母親の親戚、父親の親戚、従姉妹のことも覚えている。出来事よりも、人の印象、顔、言葉で覚えている。例えば2年前に亡くなった従姉妹のことを涙が出るほど覚えている。7年間も白血病と戦って、この7年間の間、たくさんの教会を訪ね、聖人の聖体を触った彼女は目の前で違う生き物のようになっていた。

彼女は「リリ」という。綺麗な名前だと子供の時から羨ましいと思ったことがある。リリと毎日のように電話で話して、姉妹のようなつながりだった。リリは自分が絶対に治ると信じていた。それでも60歳になる前に検査のために入院して、その夜に寝ながら死んでしまった。リリらしいと思った。元気な89歳のリリの母はこう言った「彼女は自分が死んでいることをいまだに知らないままだ」。

リリは自分の結婚式に来ていた。全ての親戚と共にあの時のシーンを見たはず。リリの方は自分より大きなショックを受けたのではないかとたまに思っている。彼女は生涯結婚せず、街のクリーニング会社で働き、実家の狭いアパートに住み、50歳に病がわかってからは毎週のように国内や隣国へ巡礼に行き出した。

田舎では、結婚せず子供も産まない女性はこのような病気になるのが不思議ではないと差別を受けることがよくあるけれども、リリは幸せだったと自分で思っていた3。人姉妹の従姉妹の中で結婚したのは未子だけ。お姉さんも子供も産んでないけれど、今も元気。だから病気とは関係がない。リリは人が良すぎて早く眠りに行っただけ。彼女は巡礼をしていた頃何を体験し感じたのか、少し自分に分かる気がした。確かに彼女のことは誰も知らないし、自分と彼女の母親以外、彼女のことを覚えている人はあまりいない。けれども、もしあの世で価値というものがあれば、彼女の魂が眩しい。この世での彼女は、夜の間に降った雪が次の朝になると溶けるというような存在だった。

リリと毎日何を話していたのも忘れてしまった。彼女からもらったイコンが山ほど残っていて、自分の寝室の壁を飾った。幼馴染と両親、親戚が集まった自分の結婚式のことを毎日のように思い出す。あの後、リリのがっかりした顔を一番よく覚えている。彼女は背が低くって、髪を短く切っていた。顔が白く、目は大きくて真っ黒だった。あの日、教会の前で自分が殴られた時、花嫁ドレスが汚れないよう持っていたリリは、倒れる自分を後ろから支えた。その時彼女の顔を最初に見た。顔というより、大きなびっくりした目を見た。絵画のようだった。自分は何が起きているのか分からなかったが、リリの目を見てこれは現実だと理解した。教会の庭にあった「生きている人」と「死んでいる人」に捧げる蝋燭をスローモーションで見た。後ろに倒れる前に。その時、「生きている人」の方の蝋燭が突如吹き始めた風で消えていくのが見えた。

その瞬間、雷が落ちたかと思った。それは彼が、自分の頭を殴ったのが信じ難いことだから。殴ったのと同じ手が自分の身体を触った手、手を繋いだ手、生まれたばかりの赤ちゃんを触った手だとはとても思えなかった。空から大きな石が自分の頭に落ちて、これは結婚してはいけないというサインだと閃いた。それは結婚する前に彼を愛しすぎたあまりに身体の関係を持ち、妊娠し、赤ちゃんを産み、村でお互いの家族に大恥をかかせたからだと思った。そのために教会の前でこの罪を起こした身体なのに白い花嫁姿をして現れた自分は殺されるべきだ、と心の中で思った。次の瞬間、教会の庭に咲いていた薔薇の匂いと自分の赤ちゃんの声で気を取り戻し、何もなかったかのように教会の階段を登って入った。立ちくらみしながら教会に並ぶイコンの目を見て、結婚する前に子供を産んだことは何も悪くないと覚り、そのまま式を挙げた。