しもた屋之噺(262)

杉山洋一

今日のミラノは薄ら寒い雨が降っていて、どんよりと昏く、ここ暫く年末に近づいて界隈が賑やかになってきたのが、すっかり落着いてしまったようにすら感じます。仕事ばかりが溜まってゆく、慌しなく浮足立った一カ月を振りかえりながら、本條君から送られてきた「炯然独脱」リハーサルの録音を聴いているところです。

11月某日 新山口ホテル
パレスチナテレビの記者が、30分前に同僚が爆撃で殺害されたことに憤慨して、ヘルメットも防弾チョッキも脱ぎ捨てた。スタジオの女性司会者も泣きじゃくっている。
イタリアでは洪水被害が拡大している。トスカーナ州などの中部イタリアを中心に、フリウリ・ヴェネチア・ジュリア州など北イタリアでも被害が広がっているそうだ。ミラノでも、大雨のたびに排水が追い付かず、冠水する地区は、被害にあった。
「炯然独脱」は一柳さんらしく、「夢の鳥」は野坂さんらしく書こうと、寸時を惜しんでホテルで机に向かう。とはいえ、余りに時間がとれず、パニック寸前。
円安が進み、対ドル151円。ガザでは複数の難民キャンプ爆撃との報道。コロナ禍、何度となくPCR検査に通ったサンボーン通りの検査センターのトイレに「はじめはヒットラー、そしてハマス。お前たちユダヤ人にガス室を」と落書きが見つかる。その傍らには、ダヴィデの星の落書きも残されていた。ミラノ郊外のユダヤ教を教えるイタリア人教師の家のアパートの壁に、教師の家番号とダヴィデの星が落書きされ、脅迫メッセージが書きなぐられていた。

11月某日 三軒茶屋自宅
秋吉台芸術村にて照通先生「香月泰男」演奏会。演奏中、聴衆からすすり泣きがもれ聴こえたそうだが、まったく気が付かなかった。泰男の戦時中の逸話などに、感じ入るところも多かったのだろうか。教育目的に書いたからと申し訳なさそうに仰るのだが、照通先生渾身の力作だと思う。題材はもちろん、初演に携わった教え子の皆さんへの愛情に溢れる。音楽には作曲者の人間性が生き写しになり、思いは音を通して演奏者へとひたひたと沁みてゆく。
一週間ぶりに最終便で羽田に戻ると、軽いショックをおぼえた。人が多く、建物は密集していて、マスクをしている人は数えるほど。山口ではタクシーの運転手が、「何故か田舎に行けば行くほど皆マスクをしているんです。人が集まる博多あたりなら皆マスクはしないんですけどね。この辺りでスーパーにマスクしないで入ると、じろりと見られるかもしれません。本来反対のはずですが」と笑っていた。

11月某日 三軒茶屋自宅
渋谷のサロンで大井くんの弾く「華」を聴く。「さくら」の旋律が聴こえるところで、バチンと大きな音を立てて弱音ペダルが壊れた。フォルテピアノで聴く「さくら」は、旧い摺りガラスごしの懐かしい風景のよう。
都立大学のスタジオへ、山崎阿弥さんのレッスンを見学にでかける。空間把握、自分の躰のなかの空間把握と、自分が置かれている外の空間把握。自分の躰の内部のどこに音が聴こえるか。それが体内でどう反響して、躰がそれにどう反応しているか。
普段、自分が聴覚訓練で教えている内容にとても似ていて、食い入るように見てしまう。山崎さんの課題は、あくまでも自分が発音体になるための空間把握だが、聴覚訓練では、外部で発された音を、自分の体内でどう処理するかが課題になる。

11月某日 三軒茶屋自宅
サーニの作品演奏会。演奏者誰もが彼の音楽に肉薄していることに感嘆する。作曲者がその場にいて、音楽の実体を体現している。演奏者はそれぞれ彼の音楽を咀嚼した上で、作曲者に対して、それならこれでどうだろう、とむしろ逆に演奏者自身の音楽性をぶつけてゆく。そしてそこに、音楽上の有機的な化学反応が起こる。音楽が見事にコミュニケーションの媒体となっていることに気づく。イスラエル軍、以前から包囲していたシファ病院突入。世界保健機関の視察団が医療機能停止を報告。状況は絶望的だという。毎日陰惨な光景ばかりがニュースで報道され、我々はただ無力感に打ちのめされている。

11月某日三軒茶屋自宅
「考」リハーサルで、音を合わせるのも大切だが、いかに自発的に能動的に音楽をつくれるか試す。別の発音体である筝と尺八を、音楽を通して近づけてゆく。音が次第に有機的に変化してくる。音の聴き方を揃えると、まるでアナログラジオでダイヤルを回しながらラジオ放送を探しているときのように、突然ぴたりと音の輪郭が揃ってみえてくるから不思議だ。
夜はスーパーで購入した牡蠣と冷蔵庫に残っていた野菜でパスタをつくった。イタリア料理を日本で作る時、イタリア風の食材を揃えてイタリア風イタリア料理を作ろうとすると、決まって失敗する。日本の美味な食材をつかって、イタリア料理の基本をつかって調理をする方がおいしいものが食べられる。
日本では、ズッキーニを使うより、大根で料理をする方がおいしいとおもうし、無理にあまり美味しくないアンチョビーを使うのなら、シラスで出汁を取った方がいい。
先日リハーサルの後で、戸部の「ブリコ」というイタリア食堂にサーニとでかけたが、すっかり堪能した。コックさんは、これはイタリアで食べるイタリア料理ではないですから、と謙遜していらしたが、見事なブリのアラを見事にグリルして調理してくださった。どの料理もおいしかったが、ニコラは翌日、生まれて初めて魚の頸を食したが、ありゃあ旨いと伊文化会館のアルベルトに自慢していて、アルベルトも羨ましそうであった。イタリア人にとってみれば、日本でイタリア風イタリア料理を食べるより、ずっと美味しく感じたはずだ。

11月某日 三軒茶屋自宅
和服の演奏家集団を指揮するのは初めての経験。和服を着ていると、舞台袖でもピンと緊張が張っている印象があったが、実際は賑やかで和やかなものであった。こちらが見馴れていない所為か、女性も男性も揃って少し引き締まって見え、出てくる音もよりきりりと彫りが深く感じる。我々が燕尾服を着る感覚なのだろうが、不思議に少し意味合いが違うようであった。燕尾服はあくまでも舞台上の衣装だろうが、恐らく演奏会以外でも使うことができる和服には、もう少し精神性が付加されているようである。今まで、邦楽の演奏家と演奏する機会は何度もあったし、彼らはしばしば和服で演奏されていたけれども、このように大人数を前にすると、感じる気配が明らかに違った。演奏会の気迫であろうが、緊張と興奮が実に塩梅よく全身にみなぎっていて、流石だとおもう。
今回の帰国では、どうにも町田に足を伸ばすことができなかったので、帰り路、すこし両親と話し込む。

11月某日 ミラノ自宅
一カ月ぶりにミラノの自宅に戻ると、庭の蔓草がすっかり紅葉して目にも優しい。朝1カ月ぶりにクルミを割って庭に置いておくと、先ず小鳥たちが代わる代わる啄みにやってきたが、昼前にはリスが食べていた。その傍らで烏が隙を狙いながら、ちょんちょんと移動していて、リスは時々、凄い剣幕で烏にけしかけては、自分の食料だと誇示してみせる。
作曲中、これなら書き進められると実感するとき、きまって腰椎のあたりにじんと鈍い電流が流れる感覚をおぼえる。これでいいのかと自問しながら作曲していると、奇妙に数列が自分に纏わりついたり、不思議と塩梅よく数字が揃うときことが少なからずあって、そんな時、誰かがそれとなく方向を知らしめてくれるようにおもう。
それと少し似て、今までの人生で、少なくとも2回、明らかに何か特別な力で助けられた。
小学生のころ走ってきた軽トラックと接触して、10メートルほど弾き飛ばされたときだ。ぽーんと飛ばされて気を失ってはいたものの、何かにふわりと優しく運ばれている不思議な感覚は、目が覚めてからも身体の芯に残った。
高校生のころ新島でひとりシュノーケリングをしていると、離岸流で一気に沖に流されてしまった。すると突然波が高くなり、シュノーケルに一気に海水が入りこんで噎せかえってしまった。万事休すと覚悟を決め、岸に向かって泳いだとき、不思議に時間の感覚が捩じれていた。岸に上がって正気に返ると、まるで何かに運ばれたような妙な感覚が身体に纏わりついていた。我乍ら離岸流に逆らって、どう岸に戻れたのかも解せなかった。
数メートルずれただけで、うまく離岸流から抜けられたのかも知れないし、ただトラックに撥ねられて宙を飛んでいただけかも知れない。ただ、あの時は指が2本千切れた以外、10メートルも飛ばされながら脳波にも異常はなく、打撲もなかった。病院の医師たちが不思議がるほど、身体は無傷だった。
まあ、どちらも気のせいかも知れないし、実際はただトラックに撥ねられただけで、気が動転して、途轍もなく岸から離れてしまったように錯覚しただけかもしれないし、やっぱり何かに助けられたのかもしれない。

11月某日 ミラノ自宅
今日から学校の指揮レッスンの新年度が始まって、新入生の一人として息子もレッスンにやってきた。学校で息子に指揮を教える日が来るとは想像していなかったが、今の彼にとって、指揮の基礎を学ぶのはとても有益な経験に違いない。息子を教えるのは、もう少し個人的感情が入り込むものかと思ったが、自分でも呆れるほど他の生徒と変わらなかった。ただ、彼の性格も音楽性も性向も知っているので、それを踏まえて最初から踏み込んだアドヴァイスができるところが、他の生徒と違う。別に指揮者にさせたいわけでもないので、贔屓目に見る必要もないので気楽である。夜家に帰ると、エマヌエラの室内楽クラスでブラームスのホルントリオと、ドビュッシーの2つのラプソディを課題に貰ってきたそうだ。実技では、ウェーバーの2番のソナタと、バッハのトッカータ、それにアレグロ・バルバロを読み始めているが、ウェーバーのソナタなど、息子が練習しているのを聴いて初めて知った。
音楽史のバルザーギ先生の授業が面白いらしく、夕食を食べながらオペラブッファの歴史を我々に話してくれる。ナポリのブッファは、当初ナポリ語で演じられていて、劇場ではなく、街中、路上などで演じられていたそうだ。当然、低級な娯楽と認識されていたが、あるとき、ナポリ語ではなく、アレッサンドロ・スカルラッティを筆頭にイタリア語でブッファを書くようになってブッファの地位が向上し、1820年頃にはブッファ専門の劇場まで造られた。
そこはかとなく、狂言を思いだしたりもしたが、気が付けば、何時の間にかこちらが教えてもらう立場になってきている。ガザで一時的休戦合意、人質交換合意成立。

(11月30日 ミラノにて)