卵を食べる女(下)

イリナ・グリゴレ

大人の女性になってから彼女の卵アレルギーが治ったものの、突然、他の全てのアレルギーが悪化した。寝ている間だけは大丈夫だったが、それ以外の時間は朝から晩まで全身の皮膚が痒くなって、塩漬けされたイカが海の風の当たる場所に日干しにされるような感覚が抜けなかった。それでも、毎日、卵だけ食べ続けた。生きるため。彼女は生きたかった。死ぬことを全身で否定していた。絶対に死なないでやると思っていたからだ。でも、この誰しも簡単にできることが、彼女にはとても難しかった。生きることは彼女にとって簡単なことではなかった。卵しか食べられないし、ストレスを感じると空気にさえ触れれば皮膚が痒くなるし、体力もほとんどなかった。その上、音と人の声にとても敏感で、例えば、気に入った声と出会えば、その声以外の声を聴きたいと思わなかった。でもそういう人は、男性であれば彼女をすぐ嫌う。しつこいからかもしれない。野生動物のような性格の持ち主だからかもしれない。純粋すぎるからかもしれない。大人なのに少女のように笑うからかもしれない。正直者で嘘をつくことができないからかもしれない。目が夜でも光るからかもしれない。卵しか食べられないからかもしれない。理由はいくつか考えられる。だから、男性と一緒に暮らすことができない。もし暮らしたら、彼女のお母さんと同じように殴られるかもしれない。嘘をつかれ、彼女の身体を利用して、野良猫のように捨てられるに違いない。

高校生の頃、彼女のお母さんは初めて見た若い女性を連れてきて、その夜は家で寝かせると言い出した。その子は家出して、団地の前のベンチに寂しそうに座っているところを彼女の母が見つけた。寒い夜をあのベンチで過ごすわけがいかないので、彼女の母はその子を家に連れてリビングで一晩寝かせておいた。突然知らない若い女性が家にいて、家の雰囲気が変わって、彼女もなかなか寝付けなかった。彼女の母はその子が寝た後で、小さなカバンをチェックしていた。着替え用のパンティと歯ブラシ、わずかのお金しか入ってなかった様子で、本当に慌てて家を出た感じだった。彼女のお母さんの話によると、父の暴力が嫌で出たが行くところもなく、次の日に家に帰るように彼女の母が納得させた。彼女はその子のことずっと考えて眠れなかった。とても羨ましいと朝になって気づいた。こんなに簡単に逃げられるなんて、彼女もやってみたかった。自由を求めて。朝まで、小さなカセットプレイヤーでピンク・フロイドの『クレイジー・ダイアモンド』を聴きながらそう思った。

Now there’s a look in your eyes
Like black holes in the sky
Shine on, you crazy diamond

知らない間に、彼女は知らない国で暮らして、卵しか食べられなくなった。いつの間にか一人で電車に乗って、飛行機に乗って、確かにアイスを自由に食べられる飛行機だったが、アイスどころではなかった。そして隣に座っていたフランス人がアニメでしかみたことない大きなイヤホンで同じピンク・フロイドの曲を聞いていた。目を一度しか合わせてないし、彼に全く興味なかったが、彼のオーラから彼女がその後に出会う世界の冷たさを感じた。包丁で間違えて指を切る時のような感覚。冷たい鉄が皮膚を切って、身体に入る瞬間、血が出る瞬間だ。身体が冷えて、震えそうな感覚。そして、その後、トイレに行ったとき、CAの笑い声が聞こえた。飛行機に初めて乗ったが寒気しかしなかった。世界はとても冷たいところだと予感した。

You were caught in the crossfire of childhood and stardom
Blown on the steel breeze
Come on, you target for faraway laughter
Come on, you stranger, you legend, you martyr, and shine

色々試してみたが一つの好きな卵の食べ方、それは、昔、自分の母が作っていたスタッフドエッグだった。卵を茹でて、皮を剥いて、半分に切る。黄身だけをとり、違う皿でマスタードとマヨネーズと混ぜて、残った白身の穴にそのクリーミーなものを埋める。上にパセリの葉っぱを乗せたら完成だ。でも、今は卵の味しかわからなくて、マスタードの風味がないと美味しく感じない。このままだと、卵さえ食べられなくなるので病院で診断してもらうため病院へ行ったのだが、身体は異常なしと言われた。すると、待合室で突然人が彼女の前で倒れた。そういえば、いつシカゴの空港で目玉焼きを食べながらそのまま倒れた人がいた。一瞬で、テーブルの下に落ちて、一瞬で元の場所に戻って店の人々と話をし、救急車を呼ばないで、朝ごはんを食べ続けた。先ほども、病院の待合室で人が倒れて、お医者が呼ばれて、救急車は呼ばれてなかった。気づいたら全部が元に戻った。何もなかったように。人が倒れるのをみたのは彼女だけだったのか?

You reached for the secret too soon
You cried for the Moon

病院で、精神の病だと診断された。それはそうだと彼女も思った。生きるだけで病むから。普通に。みんなはそうではないのか。おまけに、ある夜に卵と鶏肉の工場についてのドキュメンタリーを見た。病気になった雛が大量に殺されるシーンがあまりにも衝撃的だったため耐えられなくなった。その日から卵さえも食べられなくなった。彼女は何も食べない状態では何日も持たないと思っていたけど、動く体力もなくなった。刺青を入れる夢を何日も見た。その刺青はただの番号だった。彼女は知らない間に、刑務所みたいなところに入れられた。きっと隣のアパートに住んでいた友達が彼女は狂っていると気づき、彼女を連れてきた。でも記憶になかった。長い間、床に横になって、寒さ以外何も感じなかった。隣に牛乳のような白い液体とピンクの薬のようなものが置いてあった。でも寒さ以外、飢えも何も感じなかった。牛乳なんて、昔から大嫌いだったし、あの薬はいつか田舎の畑で植えたインゲン豆みたいだった。この薬を飲んだら身体の中からインゲン豆の苗が生えればいいのにと思った。でも、動く体力もないし、話す体力もなかった。脳梗塞のような体験だった。病院で倒れたのは隣の人ではなく、彼女自身だったのではないか? 何年も外国語で一生懸命会話をしてきた彼女は急に言葉を話せなくなって、言葉が出なくなった。話かけられても、その言葉の意味が不明のように感じた。言葉とは結局、何のためあるのか、わからなくなった。言葉は包丁のような冷たいものとして感じた。

体が石のように重くて、何日か後、背中に大きな痛みを感じるようになった。いつか読んだ、ガルシア・マルケスの短編で、突然に人の庭に落ちた天使の話を思い出した。記憶はモヤモヤしていたが、あの話で、あの天使の羽が泥だらけになって皆に無視されていた気がして。思い出せなかった。こんなに背中が痛いので、もしかしたら彼女にも背中に羽が生えるかもしれないと一瞬、光のように思った。そうだ、あれだけ卵を食べたので、きっと天使ではなくても鳥になれるに違いないと思い始めた。鳥より、天使がいいとそのあと思った。その方がいい。子供の頃、彼女の祖母は天使の話をよくしていた。天使には性別はないので、天使がいいとすごい喜びと当時に何年振りに微笑んだ気がした。

Well, you wore out your welcome with random precision
Rode on the steel breeze
Come on, you raver, you seer of visions
Come on, you painter, you piper, you prisoner, and shine

彼女は何日間も背中に羽が生えるまで待った。痩せて骨と皮膚しか残らない腕を背中まで伸ばそうとしたが、届かなかった。でも、彼女は祖母と天使の話とともに、祖母が子供の頃に教えてくれた自分の守り天使への祈りを奇跡的に思い出した。そうだ、誰も助けてくれないときには守護天使にお祈りすればいいと祖母が教えていたのだ。その祈りを母語で思い出し、頭で繰り返し始めると、重かった身体が軽く感じ、身体が急に軽くなった。こうして、何日間も光のようなものを感じ始め、飲んでも吐き出していた水も飲めるようになった。彼女の身体に大きな変化が起きた。そうだ、思い出した。天使の身体が光っているということ。実際に見ることができなかったが、あの日まで感じていた世界の冷たさが消えて、光のような温かみを感じ始めた。世界は見えないものでできていると思いながら、看護師のような、制服を着ている彼女に全く関心なさそうな女性に言った「家に帰りたい」。その言葉は何ヶ月振りに出た言葉のような語感だった。

卵を食べる女は奇跡的に回復し、電車に乗って飛行機に乗って生まれ育った村に戻った。ちょうど、ジャスミンとアカシア、村に白い花が咲いている季節で、歩きながら、アカシアを摘んで、口に入れて甘い蜜と花の香りをたっぷり味わった。最初に自分の母親に食べたいと頼んだものは卵ではなく、葡萄の新しい透明な酸っぱい葉っぱに包んである挽肉の郷土料理だった。