変化と不安定

高橋悠治

変わろうとしないが、変わってゆく。変えようとしなくても、変わってしまう。それが自然なら、変えるくふうはいらない。思いついたことを書き留めるだけ、置いておくだけで、それが変化していく。

音は空気の振動だとすれば、空気が揺れ動いて、音が聞こえる。動かない空気は聞こえない。色が見えるのも同じことがだろうか。動物の眼が動いているものが見える、というのは、遠くから危険が近づく前に、どうするか判断できる、隠れるか、逃げるか、立ち向かうか。でも、何も起こらずに、危険が通り過ぎるのが、いいかもしれない。

音楽や絵が表現だと考えるのは、危険な考えかもしれない。音や色を自分のものとして操る理由はなんだろう。

音や色で遊ぶには、それらが危険なものではなく、変化しながら吹きすぎるままに、時間をすごすことができるように慣らしていく、という面があるのかもしれない。

そうした遊びに使われる音楽や絵は、だんだん当たり前の現象になっていく。音や色の限られた組み合わせが使い古され、忘れられる時が来る。

と書いたが、絵はどこかに置かれて、そのままそこにある。音楽は、楽譜だけがどこかにしまわれて忘れられる。忘れられた絵が捨てられることが、どのくらいあるかわからない。忘れられた音楽は、楽譜だけになっている。最近は録音が残ることもある、といっても、録音方法は変わるから、機械は使われなくなり、記録された演奏も、聴かれなくなる。

何年か経って、少数の楽譜を読みなおすと、それが作られた時代とはちがう響きを立てることがある。音の組み合わせが変わるわけではなく、演奏スタイルが変わっただけなのに、何がちがうのだろう。それがわかれば、音楽は音の組み合わせではなく、演奏スタイルということになるのか。

そうかんたんにはいかない。図形楽譜や、ことばやアイディアだけを書いた作品は、演奏されなくなった。と言えるだろうか。おそらく、音符だけが音楽でないように、それを作った人たちの活動を離れては、「作品」だけが意味をもつわけでもないのだろう。そして「活動」が過ぎても、「作品」が残っているならば、それは同じ音楽ではなく、なにか別な音楽がそこに生まれて、元あったものに置き換わったのかもしれない。

と書いて、読み返すと、思っていたこととはちがうことばが並んでいる。