果実の身代わり

イリナ・グリゴレ

暴力の泉があるとしたら、山の森の奥にまだ誰も歩いたところに、黄色い岩から流れる黄色い水のようなものだ。傷がついたとき最初に出てくる鮮やかな血ではなく、血が止まった後の黄色いリンパ液のようなものだ、と彼女は想像していた。樹皮を包丁で削り、木にハートの形を刻み込む村の恋人たちを嫌っていた。自分達のイニシアルを刻み付け、それをハートで囲むあの人たちは、永遠の愛を得ていると勘違いをしているだけで、永遠の愛とは人間同士だと難しい、彼女はそう思った。木から出る黄色い液体を彼女は指ですくって食べて見たことがあるけれど、愛の味など感じたこともない。焼きたてパンと果物の方がよほど愛の味がする。樹液は数何千万年もの時間を経て宝石として採掘されると村の図書館で読んだ。最高級の石はハエ、 ハチ、アリなどの昆虫が中に閉じ込められたものだとあって驚いた。

樹液を毎日舐めていた9歳の自分はカブトムシとアリの身代わりになって、それはとても腹心地のいい満足のできる食べ物だと思っていたが、まさか食べている樹液に逆に食べられるなど一度も考えていなかったので恐れを覚えた。けれども同時に何千万年もアリの姿のままであの液体に閉じ込められ、宝石に磨かれて人間の首を飾るイメージはあまりにもおかしかった。本の中でしか見たことないが、あの虫入り琥珀の中のアリがまた動きだしたりしないか何度も確認した。目を逸らした瞬間にまた動くのでは、と。アリを殺すと悪いことが起きると思っていたから、樹液に殺され地中に埋もれていくあのイメージが頭から離れなかった。そう、彼女の生まれ育った村には暴力が溢れていたといつ気づいたのか。目の前で犬が撲殺された時か。いいや。飼っていた白いウサギは野苺のように赤い目玉をしていて可愛かった。ウサギは何匹も飼っていた。毎朝新鮮な草と木の枝をとってきて食べさせていた。たまにもふもふのウサギが毛皮になって洗濯物のように物干しにぶら下がっていた。野苺の眼がもう空っぽになっていると気づいて、命が入ってなかったとわかった。

彼女の村、彼女の世界は命で溢れていた。しかしあの樹液がアリを包み込み殺していくように、地球が同時に暴力で溢れていることに小さい頃から気づいていた。6人兄弟だったので貧しい家族の中で産まれたとも気づいていた。それでも牛を飼って、ヤギを飼って、鶏を飼って、うさぎを飼って、村は果実で溢れていたので食べ物に困ることはなかった。姉は16歳で結婚してすぐ妊娠したので、姉のために毎日下の弟と釣りに出かけていた。そんな人生、貧しい暮らしだったがそれを苦しいと思ったことはなかった。夏になると果実を食べることが一番の楽しみで、川に弟と向かう途中他人の庭に二人で入りこみ、少しだけ食べた。その家の人に気づかれたことは一度もなかった。これも小さい時から観察している虫から学んだことだった。自分と弟の気配を消す技だ。さくらんぼの季節にお腹いっぱいさくらんぼを食べた後で気づく。さくらんぼの中にたくさんの幼虫が入っていたこと。ラズベリーの中にカメムシがいたこと。

人間であっても彼女には虫から習うことがたくさんあった。大好きな果実の食べ方もその一つだった。虫は小さいから少ししか食べないと思われがちだが、実はわざとそうしているのだ。杏の実が庭に落ちている。拾ってみるとまだアリがついている。ハエもたかっている。他にも色々な虫たちがその実のところにやってくる。そして、どの虫も少ししか食べない。わざとたくさんの果肉を残し、他の生き物にもその庭、その土の美味しい実の甘さが届くよう、みんなとその味と喜びを分けている。果実は人間だけのものではない。それに、人間と違って虫の間には暴力という考え方がない。最後に人間は果実を収穫してジャムを煮たり果実酒に漬けたりするが、その前にたくさんの虫がその味を確認していたのだった。

虫と同じ気分で果物を食べ始めたら彼女は一度も大人に見つかることがなかった。虫の時間と動きで行動していたら、虫がカムフラージュするように、村のどこの家の庭に入って果実を食べても誰にも何も言われなかった。弟は彼女を太陽のように見ていた。いつも美味しい木苺、プラム、さくらんぼ、ナッツをくれる姉。彼女だって弟を小さな可愛い虫のように見ていた。彼はとても目が青くて、金髪で、まるで女の子のようだった。気が弱くて泣き虫で、守るべき存在だった。彼女も金髪だったが肌は日に焼けて黒かったし、草むらに入り、木の上に登り、膝や肘がいつも傷だらけで、まるで男の子のような格好だった。釣りも村の誰よりも得意で、自分は女の子だと思っていなかったかもしれない。いつも穴が開いっていたタンクトップと短パンで、髪の毛も短い。目の色は弟の青空の色ではなく、灰色に近い色だった。同年代の男の子よりネズミ狩り、釣り、木の実の知識、土地勘が優れていた。ただし、欲するままに取りつくすことは許せないのだ、と観察していた虫たちから教えられて覚えたので、自分と弟の食べる分しか取らない。

けれども、この幸せな暮らしは長くは続かなかった。ある日、彼女は泣く弟に腹を立てた。お腹が空いていた彼はもっとラズベリーが食べたいといつも入っていた空き家の庭で喚いた。彼女は代わりにモモをあげた。でも弟は泣きやまず、アリが食べていたそのモモを地面に投げつけ、足で潰した。モモのなかで食べているアリも潰された。彼女はこれをあまり良い兆しではないと一瞬で覚ったけれど、何もすることができなかった。それでも川に行ったさきでフナがたくさん釣れたことに気を取り直し、二人で牛と一緒に川に入り体を洗った。そうしたら、川から上がった後で彼女の腕に人生で初めて見たと思うほどの大きなヒルがついていた。それを見た弟はいきなり大声で泣き始めた。その声に彼女はびっくりして自分の身体を見ると、腕だけではなく身体全体にびっしりとヒルがたかっていて、自分の血が全部吸い込まれるのではではないかと感じたほどだった。落ち着いてくっついたヒルを一匹ずつ引き剥がして川に捨てた。何日間も皮膚に跡が残った。首と耳の下には一生消えないアザになった。小さな虫のようなものたちは暴力的ではないと思っていたけれど、あのヒルのせいでこの地球の全ての生き物が暴力的なのではないかと疑うようになった。そうだ、果実を食べていた自分はヒルの果実の身代わりとして食べられたのだ。

彼女にとっての本当の暴力がその後の人生から始まった。しばらく近寄りもしなかったラズベリーの庭に弟と再び入ってみた。すると家の中から音が聞こえ、窓を見ると家に一人の老婆が椅子に腰かけたままじっと座っていた。よく見ると足に怪我でもしたのか、象のように腫れ上がっていて皮膚も半分ほど腐っている様子だった。老婆は大柄な体つきで、椅子から何百年も動いてないという印象だったけれど、急に頭を動かして窓のほうを振り向いたのでびっくりして逃げようとした。そしたら背後にも誰かがいてぶつかって転んだ。弟が泣き始めた。高校生くらいの男の子が、家の中にいる老婆と同じようなメガネをかけ、その目で彼女と弟を見つめていた。

後でわかったことだが、その人物はあの女性の孫で、夏休みにいつも村に遊びに来ていた若者だった。何より驚いたのは、彼は彼女と弟が庭で果実を食べに来るのを知っていて、いつも見張っていたのだった。その家はそもそも空き家などではなく、足が腐ったおばあちゃんの住処なのだった。彼女が患った足が腐る病気は砂糖の取りすぎで、なにか難しい名前の病気だったので、「あなたたちも果実を食べすぎると病気になるよ」と言われた。でもたまに遊びに来て、と彼は寂しそうに誘った。彼女は初めて街の人と会って、砂糖をほとんど口にしたことのない二人に彼はチョコレートをくれた。彼女が止める前に弟はチョコレートを口に運び、口の周りを真っ黒にして、笑いながら美味しい、美味しいとあたりを飛び回って喜んだ。

彼女は怒って、喜ぶ弟を連れてすぐその庭から逃げた。もうすぐ秋で、夏の果実の季節も終わりに近づいて、入れ替わりにクルミ、トウモロコシ、ブドウの季節がやってくる。そしたらもうあの庭にいく必要はない。あの若い男性もとても恐かった。彼の周りはガとスズメバチが飛んでいるような暗い雰囲気があった。たまに村の唯一の店まで父親のタバコを買いに行った時に見かけたが、彼女を変な目付きで見て、チョコレート、角砂糖、飴など甘い物をくれようとする。すぐ逃げた。

ある朝、ヤギと牛のミルクを絞ってバケツに集め、煮沸消毒する手伝いのために弟を探すがいくら探しても周りにいない。牛の乳から直にミルクを飲むのが好きな弟は、普段なら近くにいるはずだが、その日は姿が見当たらなかった。半日経ってもいつも遊ぶ周りにさえいないので探し始めたけれどどこにも姿がない。最後に思いついたのはあの家だった。近づけば近づくほどたくさんのハチに刺されたように皮膚にブツブツが出ている気がした。庭から弟の声が聞こえたような気がして急いでフェンスをよじ登って乗り越え、家のすぐそばに降りた。そして窓から家の中を覗くと、ベッドの上で太った女性が死んだように寝ていた。足の傷から滲む血のせいで白いシーツが汚れていた。

彼女は気分が悪くなり吐きそうになったが、その後で目に入った光景が人生で一番恐ろしいイメージとなった。物置から声が聞こえ、すぐにそこへ向かった。中に入ると裸にされていた弟が泣いていた。彼の後ろにはメガネを外した汗だらけのあの街からきた高校生が興奮したような鬼のような形相で立っていた。床には溶けた飴が落ちていて、埃まみれのそれを食べようとアリがたかって黒く固まっていた。彼女は声を出そうとした。あのときもし声を出すことができていたら、その後はもっと違う人生となっていたはずだと何度も思った。でもその時は口を開けても声が出なかった。半分開け放ったドアに虫のようにぶつかって逃げた。弟を家に連れ帰り、祖父にあの家に行くように伝え、その後爆発のような光を脳裏に感じた。

彼女はしばらくの間言葉を喋れなくなった。大好物の果実を食べることもできなかった。ただただ、石に潰されるアリのように自分のその後の人生に潰された。姉と同じ16歳で結婚し、村の店で働き、夫の暴力を毎日受けながら子供を3人産んだ。彼女の願いはあの男が死ぬこと、それだけだった。あの日の出来事が何をしても忘れることができず、自分も砂糖の取りすぎからか糖尿病を患い、ずんぐりと太った身体を村の医師から何度注意されても賞味期限が切れたチョコレートと飴を店で買いあさって食べ続けた。そしてこの生活から解放される日がきた。あの男が自分で首を絞めて死んだという知らせが入ったのだ。彼女はあの庭に何年ぶりに戻り、草むらにラズベリーを見つけて食べた。口の中にカメムシの味が広がった。死んだら、アリになりたい、虫になりたい、と思った。