真っ黒の金魚(上)

イリナ・グリゴレ

彼女に会いに行った日は、史上最高の積雪で、しかも吹雪だった。街から離れたセメント工場の裏の木造パートまで、りんご畑と田んぼの真っ白で真直ぐな道を1時間かけてゆっくり走る。白とは目を射すような美しさで全ての汚いものを祓うと感じる。でこぼこ道にハンドルが取られないように、何も考えず真剣に真っ直ぐいく。宇宙の旅のように。真っ黒ではなく真っ白の背景の中に飛ぶ。潜る。泳ぐ。彼女の腕の半分を覆っている金魚の入れ墨を見た瞬間、私が走ってきた真っ白な背景を思い出し、全ては繋がった。雪景色の中では私ではなく、まだ出会ってない彼女の腕の真っ黒の金魚になって泳いでいる気分。彼女は綺麗な人だ。人は身体のどこかに魂をぶら下げる。ほとんどの人が気づかないように。小さな傷、ホクロ、指輪、ネックレス、真っ白な犬のぬいぐるみのキーホルダー。彼女の場合、腕に真っ黒の墨、黒いあざのような金魚。自由に吹雪いているこの田んぼとりんご畑の中で泳いでいるとしか思えない。アザに見えたのもいつか私の腕にあった鮮やかなアザとよく似ていたから。肌が白いとアザは黒から紫になる。でも顔にない限りほとんどの人が気づかない。誰も知らない、彼女の抵抗。

彼女に何があったのか分からないが、あの金魚の入れ墨は彼女の人生を語っている。だからどんなに吹雪いていようとも彼女に会いに行く。アパートの駐車場はすでに湖になっていた。白い雪をずっと見続けると雪が水だったことを忘れるので一瞬驚く。私の雪靴は北国に向いてない。水の中を歩くと足首から水が入る。それでも迷わず小さな湖の中に歩いていくが、不思議に嫌ではない。水で足を清める感覚だ。地球の70%以上は水でできている。水は違う状態で、水蒸気、雪、氷など同時にあるのもたぶん地球だけだ。自分の身体の中の水を想像して、金魚など泳がせたくなる。透明で、大きな容器。身体で 水生生物を育てたい。水草を特に。それとも、沈水性の水草、単子葉植物のイバラモ科、ヒルムシロ科など、マツモ科やアリノトウグサ科など、それほど多くないので身体で育てたい。ハスの花が咲く時だけ身体が鮮やかになって、服も化粧もいらない。それ以外、咲かない時期は沼のような身体でいい。ハス、スイレン、ボタンウキクサ、ヨザキスイレン、ニシノオオアカウキクサ、オシツリモ、セイロンマツモ。ミレーのオフィーリアをよくみると、あの花は彼女の身体から生えている。モネが女性の身体を描く代わり直接に睡蓮を描いたのもよく分かる。

ブカレストの地下鉄の入口でハスの花を売っていたジプシーのおばあちゃんたちがどれだけ羨ましかったか。欲しかった、あの薄いピンクのハスの花が。今になってやっとわかった。あれは自分の身体で育てていた花だ。ジプシーの女性にしかできない。私も今からやってみる。自分の身体も水だから、沼だから。中に蛙も育てみる。ウシガエルは日本の田んぼからいなくなったので自分の身体の中でもいい。あげる、蛙に。自分の身体を。でも一番育てたいのはアマガエルだ。南米のアカメアマガエルがいい。目と手が赤いから。飴のように。蛙の生態に詳しくなりたい。蛙の卵は綺麗だ。私も女の身体で妊娠でなく卵をうめればいいと思った。子供の時、何時間もヒキガエルの卵を家の近くの水溜りで観察していた。家の裏に沼があって、小さな魚と蛙をよく見た。ハスの花が咲いていなかったのが今にして思えば不思議だ。環境は揃っていたのに。何かに抵抗していたとしか思えない。

どんな環境であっても女性の身体はよく抵抗している。この前に学生に見せたハマー族の女性の結婚式の映像を思い出した。「ハマー族シリーズ」と呼ばれる、BBCが1990年に作ったドキュメンタリー映画の中の一つ。女性監督はエチオピアのハマー族の女性を撮影し、インタビューして彼女らの生活に密着した稀な映像。学生に「微笑む女」と「狩りにでる二つの女」しか見せてないけど、この二つを見たら一生分の考え事ができる素材である。

ハマー族には女の狩りと男の狩りがある。男は象とライオンなど大きな動物を狩りしないと一人前になれない。獲物を仕留めればみんな喜ぶ。しかし、女性の狩りとは結婚のことであって、それは悲しいことであり、ほとんどは親族が決めた見合い結婚で、自分達で相手を決めるわけではない。女は微笑み、従うだけ。男性がどれだけ暴力を振っても。ハマー族ではDVが普通なので、結婚したら必ず。若い女の子たちはインタビュアーに向かって微笑みながら、絶対嫌だ、結婚したくないという。このシーンでいつも注目しているのは彼女らの顔つきだ。ハマー族の女性たちの抵抗は表情に出る。女優でもない一般的なハマー族の女性たちがここまで表現できる。映像の力があらたためてこの世界には必要だと感じる瞬間。彼女たちはものすごく嫌な顔をする。特に年配の男性にアドバイスされるときの顔。

二人の女の子の結婚式は、細かく映されることによって、通過儀礼の意味を超えるような儀式となる。まず花婿はいない。最初は姑しか登場しない。花嫁の身体を黄色の泥で塗って清める。そして村の外を案内し、花婿の家へ行く道の淋しさは映像の中から溢れて、青森の吹雪となるような感覚。向こうの家でも姑に泥水とバターが塗られ続けて、髪の毛が剃られる。決められた時期のあいだ花婿と喋ることも目を合わせることもできないままだが、彼女は取材のインタビュアーにちゃんと答えて、泥もバターも思ったより痒くないとコメントする。家畜を放牧する村から離れた若い男性の集団の中に花婿がいて、牛の方がまだあったことのない人間の女性より恋しいという。

戦前の日本と同じように、ハマー族の間でも結婚前の妊娠や、障害がある子供が生まれると、その子は水子になっていた。日本では川に流されることが多かったそうだ。先日見た夢ではそうやって生まれたばかりの赤ちゃんが、へその緒がついたまま浅い川にゆっくり流れている夢を見た。あまりにもリアルで起きた瞬間にベッドに川が流れていると勘違いして、足が濡れていると感じた。水子のテーマでずいぶん前から論文を書きたいのだが、なかなかできなかった。水と子宮、へその緒と女性の身体、血と水。夢の中では川の流水に鮮やかな血が薄められる瞬間を見た。この経験は女性にしかない。流産もそう、中絶も。

私の母を思う。私の、生まれてない水に流された二人の弟の顔を、ずっと想像する。AIに昔の自分を描いてと頼んだら、私と弟にそっくりな、まだ会ってない私たちの弟たちの顔を見せてくれた。このテーマで私はずっと苦しんでいる。黒い金魚が雪景色の中で泳いで、恐山まで辿り着く。この前、たまたま女性が参加するポッドキャストを聞いていたら、流産の経験を語る女性がいた。自分の子供をトレイの水で流したという。ルーマニアでは妊娠中の女性は聖母マリアに次いで聖女エカテリナにも祈りを捧げている。彼女の人生も雪の中で泳ぐ炭より黒い金魚のようだが、男性への抵抗の象徴的な人生でもある。