冬を数える

新井卓

※12月号からの続きです

 二度目の冬が巡り、そう数えて、移民は二つの暦を生きるもの、と知る──彼/彼女が何者であろうとも、新しい土地、新しい国家で新しい生を生き始めるとき、他人から見えるのは、その人の新しい、まっさらなカレンダーだけ。二度目の冬を一度目の冬よりも心なしか暖かく感じるのは、友だち、と呼びあうことのできるわずかな人々が、わたしの、移民のまっさらな地図と暦に明かりのように灯りはじめたから。

 春、パレスチナ会議でドイツという国家の一つの貌とその手触りをまざまざと知って間もなく、ある人に出会った。パレスチナ人アーティスト、マイアダ・アブード(Maiada Aboud)はイスラエルとイギリスで犯罪心理学とパフォーミング・アーツを専攻した異色の経歴の持ち主だ。わたしとほとんどおない年だということ、何年か前に友人の誘いでベルリンに滞在し、そのまま住み続けている、ということが後でわかったが、何よりも彼女の複雑な出自──イスラエル領内のアラブ人キリスト教徒コミュニティに生まれ、離婚を機に(それは彼女のコミュニティで前代未聞の出来事だった)追放状態にあること──について、てらいなく話す様子に強い印象を受けた。

「わたしは家族の中の黒い羊。いつでも口ごたえするわたしのことを父は気に入っていたし、わたしも父が好きだったけど、離婚で全てが変わった。その日を境に、わたしの世界は消えてしまった。離婚を告げた夜、彼ははじめてわたしに手を上げた。そして、その後もずっと。一人の人間として、というよりもアラブの男として、そうしなければならないのだ、と決めたみたいに。何か集合的(コレクティヴ)な怒りを感じた。で、わたしは逃げ出すよりなかったわけ。」

『mirrors/testaments』は、パレスチナ人、パレスチナ難民、と呼ばれる人々の、それぞれの身体や遍歴、交差性(インターセクショナリティ:人種やジェンダー・セクシュアリティ、家庭環境、経済状況などさまざまなアイデンティティが交差して生まれるその人に対する差別、あるいはその人がもつ特権)に光をあてるプロジェクトだ。語り尽くすことのできない一人の人の生に、かぎりなく短絡的に、かつ感情的、身体的にアクセスするにはどうしたらよいか。そのためにわたしが選んだのは、「遺言」と「遺影」だった。パレスチナという国家、民族そのものの存在が消去されたベルリンに暮らすパレスチナ人たちの遺言、声を記録し、少なくとも200年の寿命をもつダゲレオタイプ(銀板写真)の肖像とともに、数世紀後の未来へ運ぶこと。

 わたしがわたしの死を、最後の瞬間を想像するとき、たとえば無人攻撃機に襲われたり、ブルドーザーに踏みつぶされて死んだりすることを想像するだろうか? わたしの死は、いかなる体制も、いかなる他者も侵すことのできない最後の尊厳であり、日々報告される死者の数に決して加わることのない、唯一の死だ。それはわたしの死であり、わたしの愛する家族と友人の死である。システマティックな暴力はその程度にかかわらず、生者だけでなく死者の尊厳を蹂躙する。例外はない。喪すること、悼むことが抵抗の様式の一つであるならば、その抵抗の場にこそアートの余地があるのではないか──。

 夕方を過ぎてもまだ明るい晩春のスタジオで、わたしが奮発した上等なバクラヴァ(トルコの甘い菓子)を「おえっ」と声に出して脇に押しやり、引き出しから勝手に見つけ出したレモン味のウエハースを食べ尽くしたマイアダは、オーケー、あんたのやろうとしている仕事は悪くないから手伝ってもいい、言っとくけどこいういうの滅多にしないことだから、と言った。

 それから彼女は、彼女の同郷の友人たちを次々と連れてきては、場合によってはアラビア語の通訳や、協力者のアフターケア(家族全員がイスラエルの攻撃で殺され、重いトラウマを負う人もいた)まで、申し訳ないと思うほどに真摯に、救いの手を差し伸べてくれた。パレスチナにもイスラエルにも旅したことのないわたしは、カフェで待ち合わせ、ピクニックに出かけ、ガザへの募金を集めるファンド・レイズ活動やデモに参加しながら彼・彼女たちの話を聞き、本人ができそう、と感じた時々に、少しずつ録音と撮影を進めていった。

 記憶の限り、わたしがなぜパレスチナに関する作品に取り組もうとしているのか、マイアダに聞かれたことは一度もない。もっとも、聞かれたとして、それ以外の道は全部行き止まり、と訳もなく確信していたから、としか説明のしようがなかったのだが。マイアダとその友人たちとの交流はむしろ、わたしにとり、ドイツという国で唯一無二の安らぎを感じる場になりつつあった。だれもが移民であるわたしたちはそれぞれに新しい暦を生きていたが、その無尽蔵な空白に書き加えられる一つの出会いは、それぞれ、なにか重大な意味を持っていると思えた。そして、痛むこと、悼むことを通して、わたしたちはわたしたちのことを知ったのだから、どこか大切なところですれ違ってはいないのだ、という不思議な確かさを共有していた。

『mirrors/testaments』は、8人の協力者を得て録音とダゲレオタイプの撮影を行い、現在は一時中断している。クンストラーハウス・ベタニエンでの一年の滞在制作プログラムが終わり、まだ次のスタジオが見つけられずにいるからだ。ベルリンには多数のアート・インスティテューションがあり、アーティストに格安のスタジオを提供するプログラムも存在する。しかし先月、ベルリン市は2025年文化芸術予算の13%(214億円相当)削減を決め、今、それらのプログラムは存続の危機に瀕している。

 懐もすっかり冷え切り、クリスマス・マーケットの電飾に彩られてメモリサイド(記憶の抹殺、歴史学者イラン・パペによる)のとどまるところをしらず、ほとんど何も明るいニュースのないベルリンで、新しいカレンダーに記された、新しい友だちの名前を見つめる。明るすぎるベルリンの夜空に浮かぶとぼしい星座にも見えるそれらの名前から、なにかを引き出したり、なにかを預けることもない。人々をゲットーや壁の中やテーゲル旧港に押し込めることに長じたベルリンの空、天蓋の空(シェルタリング・スカイ)にそれがあること、わずかな星が穿たれており向こうから光が差しているということ。それだけで冬は暖かい。生きていいほどに。

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※『mirrors/testaments』から、「遺言」をふたつ紹介します。スタジオに作った録音ブースで、一人で肉声(アラビア語)を吹きこんでもらっています。

イブラヒム
遍歴:ガザ→カイロ→ドーハ→カイロ→ベルリン
想い出すこと:実家のオリーブ園とオレンジ園

第二次世界大戦だった
おれと同じ名前のだれかが、アッカで戦っていた
その男は軍隊から逃げ出し、シリアまで歩いて行った
かれの信仰はそれほどに強く、シリアを去ってトルコに向かった
それからメッカに戻り巡礼をするために戦った
かれは同じ道をたどってエルサレムに戻った──ただ一度きり、祈りを捧げるために。
その後、彼はガザに来た
おれは彼のことを全く知らない、
ただひとつ
人々が、彼を人狼の父、と呼んでいたことを除いて。
男は背が高く
青い目をしていた、とおれの祖母は言った。
強く、決意は固く
晩年、彼は鍛冶屋として働き、
四人のこどもをもうけた。
(深く息を吐く)
こどもの一人は1956年に…
(深く息を吸い込む)
…殺された。
もう一人のこどもはそのとき、4歳だった。
ガザへの空爆が、彼ら二人を殺したんだ。
かれには二人のこどもが残っていた。男の子が一人、
女の子が一人、5歳年下だった。
そしてついに、彼は息を引き取った、静かに、
1967年のことだ。
その男の子が、おれの親父だ。
親父の父親は、彼が14歳の時に亡くなった。
親父はもう一人の妹の面倒を見、
彼女がちゃんと結婚できるようにしたし、伝統を守ろうとした。
彼はすぐに自分の夢を追うようなことをしなかった
彼は高校を卒業し、6年待った。
働いて、彼の母と妹の生活を支えるために。
ほかのパレスチナ人のだれもがそうであるように。
1974年、彼は大学に入った。
彼は成功し、いままでもずっと成功しつづけてきた。
家族のために。
74歳まで生きた。
そして兄弟たちの後を追った。ガザのおれたちの家は空爆され、親父はイスラエル人に殺された。
(深く息を吸い込む)
彼が遺したのは深い虚空。
世界中のだれも、それを埋めることはできない。
長男のおれも
その空白を埋めることはできない。
おれには3人のこどもがいる。
でも、もう行くかなくちゃならない
(鋭く息を吸い込む)
こどもたちは永遠におれを愛してくれるだろう
おれのことをよく知らなくても、永遠におれを愛してくれるだろう
孫がおれのことを語り継ぐことを知ってる
でもこれは、おれの物語じゃない
すべてのパレスチナ人たちの物語だ
おれたちの100年、変わることなく
目の前の現実は苦しみに満ちて。
思い出してほしい、どうか
(長い沈黙)
ありがとう。

  —

シャハド
遍歴:アル・サジャラ→ナザレ/ロード→アンマン→ベルリン
想い出すこと:ジャスミン樹の香り、ブドウの木、海の匂い

このメッセージはわたしの家族と愛する人たちへ。
あなた方の上に平安があらんことを。
このメッセージは、私がどれだけあなた方を愛し、気にかけているか伝えたくて書きました。あなた方が幸せで、健康であることを願っています。
あなた方への愛、私の気持ちの深さ、そしてあなた方が私にしてくれたことすべてへの感謝の気持ちを伝える最後のメッセージを送ることは、私にとって大切なことです。
いくつかのお願いがあります。
第一に、お互いを大切にし、お互いを気遣い、特に困難な時には常にお互いの味方でいてください。
人生は短く、怒りや悲しみでそれを無駄にする価値はないのだから。
第二に、健康に気をつけること。健康に気を配り、健康的なライフスタイルを送ること。
どうか、もういなくなったわたしに腹を立てないで。
わたしのために祈って、でも泣かないでほしい。幸せで、笑顔で、いつも人生を楽しんでいてほしい。人生はとても短いのだから、美しい瞬間を作り、素晴らしいことを成し遂げて、それを最大限に活用してほしい。
わたしの部屋、わたしの持ち物、わたしの植物を大切にしてくれたら。
わたしがほとんどの年月を過ごしたこの部屋は、大人になってからもインスピレーションの源です。
そして今度はあなた方が、それを、自分の夢のために使う番です。
あの部屋は日差しがとても美しいから、わたしの植物はそこに置いておいて。
わたしの画材は、絵を描くことに情熱を持ち、その使い方を知っている人たちに配ってください。
国の状況が心配で不安で、生活が耐えがたくなっているのはわかります。でも希望を失ってはいけない。事態が好転することを常に信じてほしい。
最後に、私のためにしてくれたこと、私の夢や考えをすべて応援してくれたこと、そしてまともな生活を与えてくれたことに心から感謝します。
あなた方の愛に同じだけのお返しができなくてごめんなさい。
あなた方のことをとても愛しています。
私たちは来世で会えるでしょう、神様のご意志があれば。