真っ黒の金魚(下)

イリナ・グリゴレ

植木の水を床に溢した。床は土ではないので、水はそのまま小さな湖を作った。水についてよく考えるようになったのはバヌアツ共和国のフィールドワークに行ってから。複数のフィールドワークは体力が必要だが、わかることもより多くある。日本は土、バヌアツは水。日本もバヌアツも火山だらけだけど火ではない、実際に行ってみないとわからない。水の話が水のように流れる、透明でまだ掴めない。よくものを落す私が水の状態と触り心地を理解していたと思ったがまだわかってないはず。フィールドワークは、自分が「自然」について分かったと思っていたことが、ただの勘違いだったと教えてくれる。なぜか、メラネシアという場所を知ってからこの世界を恨むのをやめた。あまりにもこの地球の自然体の姿を見せてくれたから。水を怖がる自分に大きな変化が訪れた。雪も水だから、青森で暮らしながら、毎年大量に降る雪のこともよく観ていなかったことに気付く。彫刻家の青木野枝さんにお正月の雪の写真を送ったら、「雪が生き物みたい」という返事がきた。それは私が言葉にできなかったこと。私は雪を恨んでいた。寒くて、太陽の光が届かない。ずっと降り続ける雪は重たい。

この壊れ尽くした世界まで綺麗に真っ白にしなくていいといつも思っていた。汚いまま、ありのままの姿でいいと。でもそうではない。雪のせいにして構わない。うまくいかなかったこと、遅刻したこと、イライラしたこと、悲しくなって起きられないこと、料理を作りたくないこと、少し太ったこと。なんでもいい。だって、こんな雪が積もっているから、当たり前。車を20キロ以下で運転することも。動くペースをゆっくりする。自然なことだ。昔の人は冬になれば外出せず、家にこもって漬物など保存食を食べ、わざわざ遠くまで行かなかった。それが今では冬眠しない熊さえ現れた。昨年は雪が少ししか降らず、「地球温暖化のせいで青森はりんごではなくみかんを植えなきゃいけない」という人もいたが、今年は過去最高の積雪で、いつもの「雪かきしかしていない」という口癖が戻ってきた。私は運動が嫌いではないが雪かきは苦手。雪かきは全身を使うが、スノーダンプやスコップを握る手が肝心で、特に重たい雪には力が必要。けれど握力がない。

女性だから力がないということではない。私の手の弱さは異常。それはバヌアツで水中のパフォーマンスを習った時によくわかった。小さい女の子にもできる所作が私にはできなかった。音が出たのは一回だけ。物を落とす。口に運ぶものもよくこぼす。遺伝的なものなのか、自分の身体の中の暗いもののせいか、別の理由があるのか。長女もよく物を落とすからこれは遺伝だ、とずっと考えていた。自分の先人をもっと知りたい。夢で推してほしい。ルーマニアの刑務所に入っていた社会主義時代の人に対する拷問について読んだ。その女性は生爪を剥がされ、指を粉々に潰された。自分の記憶ではそうした拷問だった。その後、一本の糸がつながった。キリスト教の始め、ローマ帝国の下に置かれた若い女性の拷問について調べていた時。彼女らは2000年経った今日の正教会で聖女に列せられるとともに、殉教の時に受けた数々の拷問が語り継がれている。

話は青森、ルーマニア、バヌアツ、古代ローマと行き来しているが、自分の中では水水しく繋がっている。時代と場所を超えて真っ黒の金魚がどの話の中でも泳いでいる。バヌアツの場合は金魚ではなく、トビウオだ。一人の女性が海へ走って、飛んだトビウオを素手で獲ったというイメージを今でも何度でも眼裏に再生させる。あの時、彼女に教わったことが忘れない。痛みが黒い魚のように心の中、頭の上にずっと飛び回っているにしても、指が潰されるような痛みを感じるとしても、その痛みの魚を追いかけ、捕まえ、焼いて食べる。全部。笑いながら。白い歯を見せながら。海や川や湖に来てあの魚を塩焼きにして全部飲み込む。苦しみの魚を丸ごと食べる。骨は野良犬にくれてやる。