故郷とは思い出す景色、におい、光、味、人のまなざしと声の集まりであり、ひとつの場所のことではない──そんなことを考えたのは、冷たい湖水に、よく知らない人たちと一緒に飛び込んだからだ。
風が立ち雲行きのあやしい週末、グリューネバルド(ベルリン南西部の森林地帯)の東にある小さな湖、寒中水泳の会に顔を出した。わたしを誘った張本人、一年ぶりの再会になる翻訳者・ティナをのぞき知った顔は一人もいない。アンナ、という何をしているのかよくわからない人が勝手にポエトリ・リーディングをはじめる。冬の木々のことをうたうその詩がとてもよかったので拍手喝采になる。ぽつぽつと集まり十人ほどになったわたしたちはその勢いを借りて、わっと声を上げ一斉に服を脱ぎ捨てた。冬ざれて、死んでいるのか眠っているのかわからないライラックの根本に散乱した下着をはだしで踏みつけながら、水辺に駆け出す。
こういうのは思いきりが大事だから、つま先からそろそろ入水する人たちを尻目に、勢いよく頭から飛び込んだ。水は澄んでいて、近くをのんびり通り過ぎるマガモの水掻きが見えた。全身が水中に入ってしまえば、不思議に冷たさの感覚はない。全身にスチール・ウールを押しあてるような歯がゆい感覚があり、次いで、こめかみを全力で締め上げるような鮮やかな痛みが湧き上がってくる。これはなかなか癖になりそう。頭は水につけたらだめ、凍えちゃうでしょ、とアンナが咎めたが、ほかの物好きたちも合流して、それから二度、三度と大きな飛沫を上げた。
もうおしまい!とだれかが叫び、水から出ると、肌は真っ赤に上気して身体の芯に火が燃えるのを感じた。身体を拭き、よろけながら下着を身につけた。どういうわけか、衣服を重ねるほどにどんどん寒くなってくる。ライラックの枝にタオルを干し、各々持ちよったシュナップスやウイスキーを交換しながら、みな饒舌になり、お互いに昔からの顔馴染みのような、奇妙な親密さを受けとめていた。フィンランドのことを思い出す。あそこではとにかく一度、裸になってサウナにさえ入れば、だれとでも親密になれた。
チアゴ、というポルトガル出身のアニメーターが話しかけてくる。ライアン・ゴズリングそっくりの彼は、たっぷりと遅れてきて儀式に参加しなかったので、いまから一人で入りなよ、湖をひとり占めできるよ、とみんなにいじられ、わたしたちのところへ逃げてきた。
──きみ、日本人なの? もうずっと日本のアニメーションを見つづけてきたけど宮崎駿と高畑勲は別格だね。特に『もののけ姫』はすごいし、『ハウルの動く城』も自分の中でベストに入ってる。彼らの作品にはサウダーデ(saudade)の感覚がある。サウダーデ、というのは失くしてしまったものへの思慕(longing)とか、という感じ。
──ポルトガル人が失くしたもの、っていうのは植民地? じゃあスペイン人とかオランダ人にも同じ感覚があるわけ?
ヘーゼルナッツ風味のシュナップスがなみなみと注がれたエナメル・カップを回し飲みしながら、ちょっと意地悪く、ティナが尋ねた。チアゴは、いや実際、大航海時代、植民地主義とは確かに関係があるよ、と言い、スペイン、オランダのことは本人たちに聞いてみて、と苦笑した。サウダーデには大西洋をこえて帰らなかった人々や落命した人々、ポルトガルの没落、という具体的な喪失の記憶が織り込まれているのだと、はじめて知った。
日本はどうなんだろう? たとえば日本帝国統治下の朝鮮半島に生まれ、海軍士官だった祖父には、サウダーデがわかっただろうか。「失われた世代」とだれかが勝手に名付けたわたしたちの世代には、サウダーデの感覚があるだろうか。少なくとも郷愁、という日本語をあてるにはそぐわない、実体をともなった喪失(という矛盾した言い方が可能なら)の痛み。浅茅が宿。
そういえば、『ふるさと』という歌がどうしても好きになれずにいるのは、それが過去の喪失ではなく、未来の喪失を歌うからだ(いつの日にか帰らん、って帰る気がはじめからなさそう。少なくともわたしにはそうきこえる)。未来の獲得のための犠牲、という態度こそ植民地主義的態度ではなかったか。わたしたち「失われた世代」も、地方から中央へ、そしていつか国際社会へ、という発展の共同幻想を疑わなかった。しかしその線的なモデルで、過去の喪失と未来の獲得という、ともに実体のないイメージに板挟みになった現在に留まり生きることは難しい。
『ふるさと』からぼんやりと投影される集合的な故郷のイメージが喪失によって作られているのなら、わたしたちに本当の故郷はない。というか「わたしたちの」故郷、などというものは、初めからない。わたしの故郷は、思い出す景色、におい、光、味、人のまなざしと声の集まりであり、ひとつの場所のことでもなければ、失った何かでもない。それはここに、この身体の遍歴とともにあり、だから、帰らなくてもいい。うっかりすると、忘れてしまうことはある。そんな時は、裸になって冷たい水に飛び込み、「いま」が全身を圧倒するに任せることだ。