紫式部

イリナ・グリゴレ

2年前に、春になると玄関のすぐそばに見知らぬ植物が生え始めた。小さな庭にラズベリー、ラベンダー、ミント、ミニトマト、ピーマン、薔薇、カモミール、葡萄、イチゴ、デイジー、鈴蘭、杏、ルーマニアの家庭料理で使われているさまざまなハーブ(ルーマニアの酸っぱいスープ、チョルバに欠かせないラベージと言うハーブが特に弘前の気候に合っているみたいで毎年食べきれないほど生えている)、スグリをぎっしり植え、自分の育てられた祖父母の家の庭をミクロなスケールで再現しようとしている。それに、引っ越した年から、小鳥が運んできたタネから自然にさまざまな野生植物が生えはじめた。中でも、紫が大好きな私へのプレゼントと思わせるぐらい、ポーチの階段と玄関のドアが塞がるほど大きな紫式部が育ってきた。秋になると鮮やかな紫の丸い実が迎えてくれて、どんなに落ち込んでも心の奥深くまで紫色に染めてくれる。

この実は、私たちの家を訪ねる人々の注目ももちろん浴びる。近所の子供が口に入れたこともある(食べたくなるぐらい綺麗だという気持ちは理解できる)。私が不在の時、手紙を届けに来た友達が、後で植えたいからタネが欲しいという。そんなさまざまな反応があった。けれども、この紫式部は私にとってもっと深い意味合いを持っている。ある日、「日本の文学が女性によって作られた」と、尊敬する男性友人から言われ『源氏物語』を読んだ時の感覚が蘇る。そう、自分の家に入るたびに紫式部のこと思い出すという不思議な現象が発生した。どうやってあんな文章が書けるのか、彼女の才能がどこからきたのか、植物の紫式部を観察しながら考えた。文学評論の本を読むよりも、彼女が選んだ名前の由来の植物を見るとわかる。あの鮮やかな紫の実が、彼女の秘密をギュッと引き締めるイメージが浮かぶ。実→見→身という単純な言葉遊びをしてみた。そうだ、彼女の女性としての実、見、身のことが浮かんだ。女性の身とは、人類の始まりから実っていたこと、命が詰まっているクリエイティブな身であると共に、支配される身でもあるが、紫式部のように突破し、男並の力を持つ身になれることを忘れてはいけない。これは全ての女の子に伝えたいと、授業でも知らないうちに口癖になってしまっている。

『源氏物語』を初めて読んだとき、それはルーマニア語訳だった気がする。その次は英語版だ。実は日本語でまだ読んでないが、今更ながら、もしかしたら私は日本語を覚えようとしたのも日本語で源氏物語を読むためだったと思うぐらい日本語で読みたくてたまらない。どの訳で読んでも物語の世界はとても魅力的だったから、日本語で読めばどれだけ素晴らしいだろうといつも高揚する。次はフランス語で読んでから、最後に日本語で読もうとも思う。最後の楽しみにしたいからだ。

ここで、源氏物語の一番好きなエピソードを語って見たい。まず、全体で言うと、大昔の日本では人々、特に男女が和歌でコミュニケーションを取るところだ。現代を生きる日本人の間にはない習慣であり、とても残念な気持ちになる。紫式部の生きた時代が羨ましいかもしれない。それから、何よりも生霊になる六条御息所の話である。この話から、紫式部は、どれだけ女性の身体を理解していたのかわかる。ここで一番大事なのは「女性」というカテゴリーに入る人間がさまざまということであって、光源氏との交際によって彼女らの像が見えてくる。

六条御息所に加えて、彼女の生霊を見て死んでしまう夕顔もそうだが、愛を求める女性の行動と感覚が伝わってくる。登場している女性の全ては、著者の分身であると文学評論もされている。だがむしろ、光源氏の方こそが著者の別の分身である。自分の女性としての身体を知れば知るほど女性が嫌になる気持ちが私の共感するところなのだ。女性として生きる苦しさから解放されるため、書くしかないと彼女は早くから理解したに違いない。書くことによって男性と同じ扱いをされるからだ。そして自ら源氏になって、愛が不足している女性に向けて、愛と情熱を届けた。

中国の女性監督、ヤン・リーナーの映画『Longing for the Rain』(春夢、2013)を観た時も、女性の好色と夢をここまでカメラで探ることはできないと思った。彼女はそれを見事にリアリティと悲しみに溢れたやり方で成功させている。彼女は踊りの経験があるから、ここまで女性の身体がわかるのだろう。この映画は、女性に関するステレオタイプとタブーを見事に壊している。全ての女性について語っているわけではないが、現代中国社会の一人の主婦の物語でありながら、盲点に触れることができる女性監督として彼女を尊敬している。少なくとも、テレビの洗剤のC Mに描かれている女性像よりも、女性という生き物がもっと複雑であることが伝わる。もう完璧な主婦を演じなくてもいいと、彼女のメッセージが身体レベルで伝わる。

主人公の友人がホストクラブで酔い潰れて泣きながら吐いた言葉が印象的だった。The things women do for love… (愛のため女性がやること)。カメラワークは時にドキュメンタリータッチで、北京の街並みは社会格差を浮き彫りにする。その勝ち組であるはずのターワーマンションに住んでいる主人公は、一人娘の子育て、家事、買い物以外することがない。娘を保育園に迎えに行き、信号待ちで物乞いの子供と女性たちと比べると、どう見ても幸運で豊かな人生を送っている。彼女は現代女性の欲しいものを全て手に入れたが、生活には愛がない。もちろん、娘のことは大好きで、一緒に大事な時間を過ごすし、笑ったり踊ったりする。だが、仕事から家に帰った夫は寝る直前までタブレットのゲームに夢中で、彼女に触れる余裕がない。この日常描写から、監督はこの世界を全て壊す。そして、一番注目するのは彼女の夢である。そう、女性というのはたくさんの夢を見る生き物なのだ。

主人公の夢は愛に溢れている。毎日のように夢で男性の幽霊に憑かれて自分を失うまで、日常生活できなくなるまで愛を生きる。ここのすごいところは、彼女は北京のタワーマンションに住んでいる21世紀の中流以上の女性であることだ。そこに、普通とは何かという監督の問いが聞こえる。彼女の夢は、女性の身体で生まれた彼女にとって普通であるかも知れない。彼女は夫の祖母の死を細かく正夢に見て、現実に本人が死亡すると、葬式で履かせるべき靴とそのありかまで夫に教えている。ある日、夢に疲れた彼女が友人に連れられて、中国の占い師のところ行く。そこで、夢に見た男の幽霊が、前世の彼女の恋人、つまりソウルメイトだと告げられる。そして、彼女はもう幽霊を追い出さず、ともに夢を見続けることを決心する。そこには夢でしか感じられない愛という皮肉が溢れている。現代の女性とは幽霊と恋しかできないのか。

この流れで、彼女が大好きな娘も家族を失うことになり、夫はふしだらな女と呼んで(相手は幽霊であっても男のプライドが傷つくから)彼女は捨てられる。この時、彼女を育てた叔母が電話する。夢で彼女の死を見たという。そう、また夢で繋がった。この叔母は彼女を女性の巡礼で有名なお寺に連れていく。ヤン・リーナーは、たくさんの女性がバスから降りて、雪に囲まれた寒い地域のお寺の有名なお坊さんから託宣を受ける場面を、現実の巡礼の光景から撮っている。女性の問題を解決する場がここしかないという暗示である。

ラトゥールのいう通り、確かに「我々は近代人であったことがない」1。私たちは近代という幽霊に憑かれているだけかも知れない。アメリカの人類学会ニュースレターの10月号のタイトルを見た瞬間に少し驚いた。それはThe thing about Ghosts and Haunting(幽霊と憑き物について)という。この雑誌でいつも学問の世界のトレンドをタイトルで扱っているので、私がヤン・リーナーの映画を見た後の自分の中の幽霊のトレンドと重なった。ページをめくるとアメリカの雑誌にありがちな3コマの風刺漫画が目に入る。ゴーストバスターズ風に最初は4人の人類学者のチームがエスノセントリズムという名前の幽霊に再帰性という武器で追い払う。その次は、植民地主義の幽霊を脱植民地化の武器で追い払う。最後に現在の幽霊が登場する。この幽霊の名は長く、「組織的人種差別、環境的不公平、構造的暴力、グローバルな不平等、気候変動」という。この、今までと比べて何倍も大きな幽霊の前で、ゴーストバスターズの人類学者チームは武器がない…、どうすれば良いか、戸惑う、「uh-oh! Ideas? Anybody?」( 誰か、アイデアないか)。

この漫画は今の学問の限界を完璧に表している。ただし、絵の中には私から見れば小さなミスがある。人類学という学問の始まりから登場するゴーストバスターズチームのメンバーは、後ろ姿で描かれているものの、さまざまな人種であり書き手の気遣いが分かる。しかし、問題はこのチームの中に女性が一人もいないことである。これは歴史的事実とちょっと違う。エスノセントリズムの幽霊からベネディクトとミードがいたし、植民地主義の幽霊を倒すにはストラザーンとショスタックなど多勢の女性人類学者がいた。忙しい男性漫画家はこれに気づかなかったし、編集部も見落としたまま雑誌に載った。素晴らしい漫画だが、もの足りない。女性学者はこの歴史から消されている。

私たちは、現代人であったすらないのかもしれない。そもそも子供は現代人ではない。ドライブに連れていった時に、ふと後ろを向いたら娘たちは色鮮やかな豚の溶かした骨で出来ているハリボのグミをサングラスに付け、髪の毛と車内に飾り、大きな声で笑っていた。これは明らかに現代人と違うと思った。欲しがっていた蝶々のイヤリングをピザトーストに押し付ける姿もそうだ。叱ると困った顔をして「可愛いから」という。

ところで、ルーマニアのスープに欠かせないラベージというハーブは、英語でlovageと書く。愛のハーブなのか。香りが強めのセロリの一種なので、苦手な人もたくさんいるだろう。それが私の庭にたくさん育つとは思わなかった。この文章を書いている最中も、娘たちはテーブルの向こうで不思議な姿勢をとりながら自分たちの足の裏を描いている。そうだ。ラスコー洞窟の壁画を描いたのは女性だったかも知れない。先日見た夢の中で、ハチミツがたっぷり入った二つの茶碗をもらった。ドライブから家に戻ると、雪に埋もれている玄関に紫の実が光って、紫式部の笑い声が聞こえた気がする。今ハマっているルーマニア出身のシュールレアリズム詩人のGherasim Luca の詩が頭に浮かんでいる。

J’aime… (好きです)
…mourir(死ぬのが)
mais de rire…(でも死ぬほど笑うのが好きです)
…de fou rire(激しく笑うのが)

(1 箭内匡の『イメージの人類学』からの引用)