綿飴、いちご飴とお化け屋敷

イリナ・グリゴレ

デパートの最上階の温泉に週に何回も行くことになった。家から車で8分、町の真ん中にある。暗い駐車場に入って、最上階までグルグル回るのが好き。儀礼のように感じる。明るいところから暗いところに入ると、眼が一瞬、見えなくなる。この瞬間は違う世界に入ると感じる。東京に住んでいたころも世田谷区の温泉をよく使っていた。銭湯と温泉の解放感が癖になる。日本では、場の境界線は薄い。一つの状況から次の状況に移動するのに何秒もかからない。デパートの温泉もその一つ。

昼前に突然薄暗い風呂場の中で他の女性たちと裸になってゴシゴシ身体を洗う。ここに来ると街で見かける彼女らの顔が全然違って、外の世界ではなかなか見せない顔が皮膚の表面から眼の奥まで伝わってくる。この顔をどこかでみたことがあると思い出そうとして、露天風呂に入りながら風が吹いていたその日に水の表面に虹の輪が光って、お祭りの時の人の顔だと気づいた。

娘たちも温泉に入るのが好きみたい。一人で行ったことがバレたら「ママはずるい」と言われる。娘たちは20分ぐらい離れている西目屋の「しらかみの湯」と言う場所がお気に入りだ。夕方に弘前市から岩木川添を通り、6月の初めのアカシアの花の匂いが全開した車の後ろの窓から入って、娘たちはアカシアの蜜を飲んでいる蜂に変身した気分になる。アカシアの花の天ぷらもサクサクにあげて、食べる時には心の中でお祭り騒ぎだ。ルーマニアにも春になるとよくアカシアの花が咲いて、そのあと一年中アカシアの蜂蜜を食べていた。懐かしい味と匂いだが、天ぷらにすると油で揚げた花の甘みが大人の味になる。甘塩っぱい気持ちのように日本酒とよく合う。アカシアも元々日本の植物ではないからお互いの気持ちがわかる。人間も植物も動物も移動し、変化し更新し、生き続けてきたと実感する。

ある夜、寝る前に娘たちとの会話が盛り上がった。今回はアリについて。長女は「昨日は小学校の男の子がたくさんのアリを殺して、かわいそうだったよ」と、手の平にアリの山が乗っている仕草をした。次女は幼稚園で女王アリを見つけて怖かったと、身体で女王アリの真似をしながら虫が怖いアピールし始める。ここから私は女王アリのイメージをよくするため、真面目に女王アリの生態を説明し、卵を産むこと、ママであることを主張する。娘たちは「ママが女王アリだ」と歌い始め、ベッドで不思議な儀式が始まった。私が卵を産む代わりに次女は私の足の間から出る踊りを振り付けた。そういえば、この前も公園で散歩していた時、突然に次女は「ママ、〇〇ちゃんが(自分の名前)生まれたね!」と初めて気付いたように言った。

こうした気づきが最近ではよくある。例えば、ショッピングモールのフードコートで、可愛いピンク色のドーナツを選んで、満足した顔で食べ、ずっと上を見ていた。その時、「ママ、〇〇ちゃんは空を見ている」とニコニコしながら言った。上を向いて見たら初めて窓があるのがわかった。その何日後も蒸し暑い家の中にいて、窓から外を覗いていた次女は「小鳥さんは外に自由に飛んでいるのに、〇〇ちゃんはなぜ家にいるの?」と右と左とを逆に靴をはいて、返事を待たずに外に出た。ここ2ヶ月前から、たんぽぽの綿が出始めた。次女から見れば種が生きているとしか思わない。その綿が風や人の息で揺れているのではなく、動いているから生きていると思っている。そのタネを集めて、「かわい子ちゃん」という名前をつけて毎日のように家に連れてくる。「かわい子ちゃんは口がある?」と聞かれた時、答えが見つからず、食べものをあげようとしているとわかった。たんぽぽ綿に綿飴を食べさせようとした場面も。

次女の一番怖いものが弘前桜祭りのお化け屋敷だ。コロナが明けた後、屋台が大好きな二人にとって桜祭りの弘前公園は世界で一番ワクワクするところだった。獅子舞の練習に赤ちゃんから連れていったおかげなのか、二人ともお祭りという時空間が居心地いい。長女も街のあっちこっちを車で通るとお祭りに行った場所を1歳から覚えている。ここは美味しいイチゴのかき氷、ここは「やーやどー」(ねぷた祭り)と次女も言う。今年の弘前さくらまつりも満喫した二人にとって綿飴とイチゴ飴の記憶が鮮やかだ。

お祭りといえば、もう一つ思い出がある。私がお気に入りの昭和風な食堂でタコとつぶ貝のおでんを食べたあと、綿飴といちご飴の屋台にたどり着くためには、お化け屋敷の前を通らないと行かれない。人混みの中を歩くと、客寄せの声がスピーカーから聞こえてくるけれど、次女は怖すぎていつも屋台の裏に隠れてなかなか前に歩かない。たくさんのお化けの絵と人を呼び寄せるおばさんの声が独特で、本物のお化けがいるとしか思えない。本物と偽物とは、最近では自分の中のテーマであり、「ひょっとしたらお化け屋敷ではなく、本物のお化けは人間の腹黒さの中かもしれない」と思った。

授業でもよく口癖になっている言葉があって、それは「共感」だ。人間とは知らないことが怖いがその反対に「共感」というものがある。学生にさまざまな民族史映画を見せて、「原始社会」と「未開社会」と言う言葉をなぜ使ってはいけないと説明する。アフリカのアザンデ族についての映像を見せたあと、家に帰ったら学生からメッセージが届いて、授業の感想と共に、一言「アザンデ族が羨ましい」と正直な心の言葉が書いてあった。これからずっと私が人類学を真面目に若い人に届けたいと自分の道を信じた瞬間だった。中では、ジャン・ルーシュの「狂気の主人たち」を日本語の字幕なしで見せた日も心に残る。学生は「言葉からではなく」身体で全てのイメージを受け止めて、植民地される側の気持ちと共感ができたと言う。

今日も娘たちと西目屋の温泉に向かっていた。途中から岩木山川の近くに花火大会があると気付き遠回りになったが、夕暮れの空に朝顔とハート形の花火の合間に見えた雲、長女が思わず「綿飴みたい」と呟く。次女は田んぼの蛙の声を聞いて「お化け屋敷の音だ」と言う。この時期にいろんな種類の蛙が相手を探して、声でアピールする。ウシガエル、雨蛙、ヒキガエルが同時に聞こえ、祭り気分が永遠に続く。浴衣を着て、コンビニの前と道路沿い、各家の前でバーベキューしながら酒を飲んで花火を楽しんでいる人々がいた。