自転車に乗っていた女の子

イリナ・グリゴレ

2003年に高校を卒業して、地方の町から首都のブカレストに引っ越し、国立映画大学を受験した。願書を出したとき、事務室の前で待っていたほかの地方の町から来た女の子が、私の方を見て話しかけた。「あなたも女優になりたいの?」私は「いいえ、私は映画監督になりたい」と自信たっぷりに答えた。彼女らは安心した顔で私から離れた。敵だと思っていたようだった。その大学は映画と劇場関係の唯一の国立大学で、全国からこの道に進みたい若者が集まっていた。建物は古いもので、ブカレストは小さなパリと呼ばれた時代には綺麗だったに違いないが、私が願書を出しに行ったときには壁が崩れそうで、カフカの小説の雰囲気を思い出させた。入るとき門の近くに死んだ鳩が放置されていた。あまりいいサインではなかった。

いい大学だと思っていたが、私みたいな人間は普通に入れないとは分かっていた。アートの世界は簡単にアクセスできないからだ。2000年代のルーマニアの社会では格差がまだあったし、地方から来た人間は親の立場によって住むところも出会える人も全然違っていた。ピエール・ブルデューのいうハビタスの概念が当てはまる。同じバックグラウンドの人同士で集まって生きていた。私の場合は、家族や周りに芸術や学問のバックグラウンドをもつ人はひとりもいなかった。映画監督、建築家、科学者、小説家になる確率はゼロに近い。それだけではなく、私は女性だ。映画監督は男性の仕事だと何度も言い聞かされていた。だが私は簡単にあきらめなかった。19歳の私はすべて体験したかったのだ。映画大学はどんなところか見てみたかった。

事務室で願書を出し、試験の日付を聞いて、出口へ向かった。出口の近くに映画監督の受験に必要な映画のリストが貼ってあった。18本ぐらいの映画のタイトルを見て、全部知っていたから安心した。ストーリーも評価も監督の経歴も全部知っていた。でも、じつは実際には一本も見てなかった。インターネットもない時代で、地方には映画館もない。レンタルショップでも芸術映画はほとんど借りられなかった。私は17歳で、将来は映画監督になると決めていたので、毎日図書館に通って分厚い映画史の本と評論を読んでいた。アート関連の本は貸し出していなかったので、片道40分歩いて毎日図書館で読んでいた。最初から最後まで何度も読み返したのだが、私にとってはシネマの始まりから80年代までの歴史が魅力的だった。レンズの発見の話、シネマの始まり、ルミエール、ドイツ表現主義、エイゼンシュタインの映画の作り方、「市民ケーン」、「アンダルシアの犬」、チャップリン、そしてサイレント映画の破壊。サイレントのノスタルジーを肌で感じて、頭のなかだけでずっとずっと繰り返して見ていた。そのあとはイタリア映画、ヌーベルバーグ、フェリーニ、タルコフスキー、パラジャーノフについて読んだ。

私の場合、シネマとの出会いはじつは妄想から始まった。映画について図書館にある本をすべて何回も読んだが、映画は一本も見ていない。それにもかかわらず、当時の私は映画監督になるために大学受験を決意した。本で読んだ、すべての知識を持っている男性としての映画監督のイメージに憧れ、自分の環境も、女性であることも、知識が足りないということも忘れて、そのイメージを追いかけた。自分が置かれている環境を忘れることができ、大きな夢が見えた。自分の身体はあの時無限だと思った。

大学では、映画監督の学科定員は10人しかいなかった。競争はなかなかのものだった。それなのに受験する私はどうかしていると思われたに違いない。受験当日、口頭試験を受けるまで、受験生は控室に通された。緊張していたのは私だけだった。他の受験生たちは顔見知りなのか、冷静に座って待っていた。男性が多いなか、有名な女優の妹と有名なアーティストの娘がいる。呼び出しの名前でわかった。とうとう私の番になって、頭が真っ白になった。部屋に入ると7人の映画監督が座って私を観察していた。女性も2人いた。化粧ばっちりの60歳のレディーが上目づかいに私を見ている。彼女は社会主義時代、子供向け映画をテレビのために作っていた映画監督で、児童映画のレジェンドだった。子供っぽい私をみて、きっと田舎者だと思ったに違いない。

男性たちは、聞いたことない映画監督だった。大学の教官として生き残っていたが、経済混乱期のルーマニアには映画に使う金などなかったから、実際に映画を作っている人はだれもいなかった。ベルリン映画祭で賞をもらうほどの有名人は私が受験する前にすでに死んでいて、あとにはマイナーな映画監督しかいなかった。彼らは名前だけの映画監督で、大学で権力ゲームを楽しんでいた。あの時わかったが、権力がある立場になって初めて人間性が現れる。一人は私を見て皮肉な声で言った。「可哀そうな子だね、ほら水を飲んでちょうだい、喋れなくなったね」「あなたチェーホフのキャラクター、三姉妹の一人みたいだな」とも言われた。映画監督ではなく、女優の試験を受ければよかったと言いたいのか、となんとなくニュアンスが分かった。

あの場でなにを話したのかわからないが、キーワードが与えられ映画のスクリプトを作った後、次に頭が真っ白のまま先生方の後ろにある小さなテレビで映画のシーンが流れて私はその映画と監督の名前を当てなければならなかった。たぶん、バルカン半島の80年代の映画だったが、面白くなかった。酔っている男性が女性を求めるシーンで、気持ちが悪かった。先生は私を見て笑い始める。今にしてみれば、あの大学に入学しなくてよかったと思う。19歳の若い女性としての自分には、あのシーンを説明せよと言われても説明できない。映画であってもやっぱり試験に選ばれるシーンではないと思う。男性の支配のシーンと目の前にいる先生としての男性支配者の顔をみて、なにかを言ったが、よく覚えていない。泣きそうになった私の顔を見ていた教官は満足していた。私のリアクションを見るためにわざとあのシーンを私に見せたのだ。女性の先生はなにか喋っていたがイヨネスコの劇みたいになっていた。お互いに喋り始めるのだが、見ている私はなにもわからない。

試験がおわって、2日ぐらいなにもしゃべらない状態が続いていた。あのシーンをどう説明すればいいのか。そういう映画を作るために映画監督になりたいと思っていなかったし、救いのない男性のリアルな話を描く意味がどこにあるのかわからなかった。私はドキュメンタリーを作りたいので映画の勉強をしたいと言いたかったが、涙を流すことしかできなかった。そもそも私の人間としての経験が浅いと上からの目線で見られた。あの時、私はあの先生たちを恨んだ。映画監督は男中心の世界だと知った。自分が女性であることがとても苦しかった。女性で、田舎者で、人生経験の少ない私は映画監督になれるわけがない。そういうふうに向こうからメッセージが伝わった。涙目になったのはすごく苦しかった。私は弱い人間だと知らされたからだと思ったけれど、あの時に涙目になったのは、自分の弱さのせいではなく、支配者のことが嫌いだったからだ。こんな私を泣かせたい人間は最低だと思ったからだ。女性としての涙だったのではなく、動物が獲物にアタックするまえの目だった。

そのあとブカレストのシネマテックで2年間引きこもって1日に映画を5本見た。読むことしかできなかった映画をすべて大きなスクリーンで見た。そのときから黒澤明の映画をたくさん見て日本語を勉強し始めた。毎日住んでいた貧しい地域から町の中心部にあった2つのシネマテックを訪ねて、パンを少しだけ食べて1日中映画を見ていた。受験の場で見た映画監督の姿とシネマの歴史に残る映画とのギャップが大きくて、ああいう人たちには、こういう映画を作れるわけがないとなんとなくわかった。

ある日、知り合いから映画監督に会わせると言われ、夜にファッションショーをやっているから紹介すると電話があった。映画監督という動物を、もう少し近くから見たいと思って行った。綺麗な服をもっていなかったから、私の当時のジプシー風スタイルで行った。長いスカートに穴が開いているセーター、スニーカー、化粧もしないで、髪の毛は2つにわけて三つ編み。この格好でブカレストの一番高いホテルのロビーに入って、キラキラしているファッション関係者の間を歩く。そもそも高級ホテルに入るのも初めてだった。とても圧迫されてつぶされそうになったとき、知り合いに引っ張られて背の高い男性の前で止まる。紹介される。2メートルぐらいのラグビー選手のようなな人で、落ち着いた声で私に話しかける。電話番号を交換する。何が起きているかよくわからないままだったが、知り合いにこの方が映画監督で、いろんなショーを担当しているのでこんど覗いてみたらと言われる。とても怖かった。周りの人に指示をしている姿をみて、社会でいわれている映画監督のイメージが分かった。

しばらく彼の担当していたショーを見たあとで、家に誘われた。本棚にたくさん並べられているアートの本の中からレオナルド・ダ・ヴィンチの画集を取り出して私に見せた。若い女性の横顔のぺージを開いて「あなたによく似てる」と言われた。私の服を見て、「この格好どうしたの、大変だね。本は好きなだけ貸してあげる」と優しい声で言われた。スタッフが入って来ると、私を放置し、仕事の話を始める。戻ると映画の話を私とふたりではじめる。

私の映画の知識に驚いた様子だった。2時間ぐらいして帰ったが、あのときはとても怖かった。彼はチャーミングで、知識人で、身体も大きくて、完璧な映画監督の像にしか見えなかった。自分が持っていないものをすべてもっていると思ったから、彼がとてもうらやましかった。それ以来、不思議な関係が始まった。私は彼の知識が欲しかった。憧れていた映画監督の目からどうやって世界が見えるのか知りたかった。たくさんの話をしたのは確かだ。映画大学の受験をした時の先生を知っていたし、教える経験もあった。一人一人の話を詳しく聞いた。有名な俳優と女優の話も聞かされた。映画監督になる前、社会主義時代には工場で働いていたこと、付き合った女性の数と話をすべて詳しく教えられた。知りたくないことをたくさん知った。「あなたは女優になればよかった」と言われた。ラース・フォン・トリアーの「奇跡の海」の主役にぴったりだと笑いながら言われた。私は不思議ないかれた女性にしか見えなかったのだ。そしていろんな話を知れば知るほど支配される関係になる。でも映画の話をする人は彼しかいなかったので簡単にやめることもできずに依存していた。当時、引っ越しを繰り返していた私はある日、住む場所がなくなった。それを知った彼はアパートを借りてあげると言ったが、私は断った。これ以上支配されたくないと意識しはじめたのだ。

私のストーリーをいっぱい聞いて「あなたはフェリーニの生まれ変わりだよ」と言い、「二人の映画はカンヌ映画祭で賞をとれるよ」と話が盛り上がる時もあった。でも二人の間のギャップが大きすぎた。このままいつまでも続けられないと分かっていた。彼がいつも付きあっている女性のイメージと全く違っていたし、化粧も洋服もない私は面白くなかった。ある日、連絡が取れなくなった。「あなたは私を断りすぎだよ、いつまでも自分の状態を超えられない」と飽きられた。こういう関係が終わってよかったと思った。女性というよりまだ女の子だった。彼は私の単純さで自分の男らしさを確かめただけだ。私にとっては男性はこうやって世界を見ていることを知るレッスンだった。お互いに狩りをしている動物のようだった。食べられた側は犠牲になって、食べる側の身体の一部になる。それ以来会っていないが、今になって、私は本当に食べられた側だったのかどうか曖昧なところだ。あのとき私は完全にやられたと思ったが、私も彼の力をもらった気がする。ある日、知り合いから連絡がきた。持っていた映像制作会社が火事になって彼はアル中になっていた。その日、私は分かった。この世で権力のある立場を永遠に持つことはできない。人間性が試されているだけだ。

私が映画監督になりたかった理由は、小学生の時に団地の窓から見たイメージが元にあった。団地の間から霧の中を自転車を引っ張って歩いている痩せている男性の姿がとても不思議で、忘れることができない。自転車の後ろに4歳ぐらいの女の子が安心している様子で座っていて、とても美しかった。男性は髪の毛は長くて髭があり、長いコートを着て、イコンで見るイエス様の姿にそっくりだが、片目をケガしていた。私の方を見た。そしてそのとき、私はあの女の子になった。あの女の子はもうこの世のものではなかった。

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