蛇苺

イリナ・グリゴレ

手術後しばらく杖の支えで歩いた。そのときまで当たり前のようにできていたことができなくなった。病院の外の世界が覚えていた雰囲気と違って、暗かった。杖を置いたら少し歩けるのにまだ身体に自信がなかった。傷があまりに大きかったのだ。リハビリにバスで通うほかは、六畳の部屋にしばらく引きこもった。

今にしてみれば、それは自分の身体と向き合う充実した時間だった。杖がカタツムリのアンテナのように自分と世界の間にあって、それで世界を感じた。ただただ、ゆっくりと歩く辛さと喜びを感じて生きた。こんなに集中して歩いたことは今までなかった。筋肉が落ちてバランスが崩れて世界観が変わる。ただの数ヵ月間の時間が、昔話のように、深い森から出たら何年もたっていた。時間の感覚も、杖のような長い棒のような何かの塊になった。ゆっくり、ゆっくりと体があの自分の延長になった杖にだけに集中し、それ以上ものが考えられない。

ある日、宇宙探査機はやぶさの打ち上げの話を聞きに本郷まで出かけた。身体がこんな風になると、不思議に人間と宇宙の話が興味深くなる。杖でよちよち歩いて、本郷キャンパスが暗い中、いつか夢に出た雰囲気を思い出させた。

宇宙の話を聞いたからか、命は動きだと気付かされた。引きこもってばかりしてはいられない。旅に出ることにした。香港の空港に着いたのは夜九時ごろ。大学院の友達二人と学会に行くことになっていた。空港からタクシーに乗って街へ向かった。タクシーの運転手は若い男性で、車があまりに古くぼろぼろで、私たちの荷物をトランクに入れたらしまらなくなって、紐で縛ってすごいスピードで道を走り出した。テレビゲームのように運転していた。ニルヴァーナの曲が流れた車内や外から窓に映っていた高速ビルの夜景をみて目眩がした。カート・コバーンの声はなん年ぶりだろう。高校のころ、誕生日にIQテストの本と一緒にニルヴァーナのカセットテープを先輩からもらった。当時もほとんど部屋に引きこもって図書館の本を読みまくる生活だった。不思議なプレゼントだと思ったが、そのカセットテープを毎日繰り返し聴いていた。アルバムは、ニューヨークで録音されたMTVのアンプラグドバージョンだった。とくに”The Man Who Sold the World”と”Plateau”という曲が気に入った。プラトーという言葉が好きだった。

あのころ、わたしはとにかく遠いところへ逃げたかった。知らない地、知らない世界、知らないところの島のような地に行きたかった。コバーンの声はニューヨークで録音されていたが、私が聴いていた時もう彼はすでに死んでいた。

高校時代の私はなんであんなに寂しかったのだろうと思いながら、タクシーはものすごいスピードで走り、タクシーのミラーに映っていた高速道路はどこかのインスタレーションのような作品っぽい映像にみえた。暗いなか彼の集中している横顔が狼にみえた。そのぐらい私の杖で歩く日常のスピードとそのタクシーのスピードが違っていた。いつか前にシカゴにいたときもそうだったが、空港からのタクシーの運転手と、はじめて遠くに見えたその都会の夜景が一致していた。違う世へ導く案内役を務めるのはいつもタクシーの運転手だな。現代という時代では、タクシー運転手がステュクスの川を渡す役になっているのだろうか。

香港ではずっと目眩がしていた気がする。ショッピングモール、屋台、お店、ホテルのイメージが混乱する。新聞の朝刊をみたら、ポスト社会主義のルーマニアの写真集が紹介されていた。黒い布で頭を巻いて薪ストーブの近くに座っているおばあさんの白黒写真をみて懐かしくなった。あのおばあさんの目がなにか私に訴えていた。そのおばあさんとどこかで遇ったような気もした。その写真のことを考えながら駅前で売っていた焼き芋をどうしても食べたくて買って食べたが、パサパサしていておいしくなかった。どこへ行っても、食べものの味で落ちつきたい私。

香港に何日いたのか覚えてないが、杖で歩きながらその資本主義というイメージを理解しようとしていた。資本主義の人間が完璧な身体でいられることを求められるという感じもした。杖で歩いている若い白人の女性の私が違和感を与えた様子だった。ジロジロとみられた。

そのとき、なぜかベルイマンの『野いちご』という映画を思い出した。私も長い旅に出る死に近づいている人の感覚だった。建物の下にたくさんの人が歩いていて、その中に私がゆっくり、違うスピードで歩く。なぜか、人と建物の間のノイズがずっとその夢の感じを築いていた。ずっと暗かった。焼き芋の屋台の人以外、現地の人と会う機会はほとんどなかった。

へバスで移動したとき、信号で止まった車の中にいる人がはじめて近くから見えた。その男性は、鼻をかんでそのティシュを見てからそのまま外に捨てた。高速道路とビルの間からお月様が一瞬だけ見えた。そのとき友達が私の考えていることを言葉にしたかのように「よかった。自然がここにもあるね」と言った。なんだか、月が見えたことで、まだ地球にいるという安心感が戻ってきた。

もう一つ大事なエピソードが起きた。学会の遠足で、下町の暗い高架の下に占い師のようなおばあさんたちがまだいる、と案内された。そこで不思議な儀礼が行われるらしいから、若手人類学者の卵が見るべきところと言っていいだろう。意外と大勢の客が運勢を知るために来ていて、あたりは混んでいた。グループの中に占ってもらいたい人がおらず、私としては自分の身体で経験しないと気がすまないから、試しに占ってもらった。

占い師は、あなたの病気の原因がわかる、と言った。杖のせいか私が病人にしか見えなかったのだろう。それから占いのおばあさんは、歌うような不思議な抑揚の言葉で語ったが、私は向こうの店で売っている不思議な食べ物をぼんやりと眺めて見ていて、何も感じなかった。通訳した人はかなりの怖がり屋で、複雑な表情をしながら、あなたの病気の原因はすごく寂しいおばあちゃんの幽霊だそうです、と英語で言った。詳しく知りたいならもっとお金がかかると言われたのでそこでやめた。占い師の話に寂しいおばあさんの幽霊が出たのは、私がその朝に新聞でみたイメージのせいかもしれなかった。香港の旅はここで終わった。

香港から帰ってきても自由ではなかったが、リハビリで小さな代田川の近くを歩いた。すると、季節が一瞬で入れ替わっていた。やはり違う世界に入っていたに違いない。

そのあとすぐまた旅に出てルーマニアの実家に行った。杖をついて。そうしたら父もちょうど病院にいて大きな手術を受けていた。父の体にできた大きな立派な傷を、私の手術跡と見比べた。その瞬間、父の今まで許せなかったもろもろのことを許している自分に気付いた。次の日から、もう杖で歩くのをやめることができた。ゆらゆらしながらも自分の身体が解放された。人はなぜ互いに傷つける生き物なのだろう、と自問しながら。

すぐ日本に帰らなければならなかったので、生まれ育った家には一時間ぐらいしかいられなかったが、庭に入った瞬間驚いた。それはまた新しい世界への入り口だった。家の周りのすべての庭に美しい白い花が咲いていた。黒い土の上に、たくさんの白いすみれだった。あの家になん年もくらしたのに、白いすみれが咲くことはなかった。家も近くの森の一部だと感じた。

日本に戻って、リハビリを終えてからも、しばらくあの細い川の近くを歩き続けた。そうすると、香港の占い師にいわれたおばあさんの幽霊が、しばらく前に亡くなった父方の祖母のことだと分かった。彼女は若くして夫を亡くしたためか、一人息子である私の父が結婚して彼女のもとを離れたことが許せなかったようだ。

亡くなった人間をみたのも彼女が初めてだった。彼女を看護して最期をみとったのは私だったから。きっと寂しかっただろう。亡くなった瞬間、私のほうをみて、何か呼びかけようとしていたが、部屋に集まった黒い服に身を包んだ村の婦人たちは、私が彼女に近づくのを止めた。私が近くいると、魂がうまく体を出ていかないから、と村人たちは言った。あの日の村の女たちは、まるで死霊にしか見えなかった。彼女の孫である私も、もう一人の母方の祖母に育てられたから、最後まで彼女にあまり甘えることもなかった。彼女にはこれも寂しかっただろうか。

死がいよいよ近くなると、村の婦人はみな黒い服を着て病人の部屋と庭に集まり、臨終の時を待つというしきたりがある。きっと彼女にはそれがよかった、あまりにも一人での人生が寂しかったのだろう。そんなことを思いながら、代田川のほとりを杖なしでゆっくりと歩いた。

あのとき、踊りをみに行く前の夜のこと、祖母の庭に光る木の夢を見た。その木には蛍のような生き物がびっしりと取り付いて、それがうごめくたびに、木の全体が光って動いた。そして、その翌日、私が踊りを見ていると、暗い中に浮かぶ身体が小さな電球をぶら下げてうごめくように踊っていた。まるで、夢に見た動く光の木のように。全部が繋がっていると思った。

川のほとりを歩きながら、またベルイマンの『野いちご』を思い出した。主人公の息子は新しい人間をこの世に生み出すことに反対していた。そういう傷というのもある。なぜか香港で聞いた寂しい幽霊のことが心に浮かんだ。きっとあの幽霊となった寂しい祖母は、ほんとうは私自身のことだったのだ。そう思いながら川べりに実っている蛇苺に気が付いた。とても綺麗に見えた。どうしても味見したくなった。蛇が食べる苺とはどんな味がするのだろう。その赤い色がものすごくはっきり見えた。思わず一つ実を口に運んだ。あまくなかった。

(「図書」2017年9月号)