逃げたパン(上)

イリナ・グリゴレ

ある朝、いつものように娘たちと朝ごはんを食べる時、会話に花を咲かせた。私が長女に、蒸しパン食べたいなあ、近いうちに作ろう、と話かけると、次女がおびえて「虫パン嫌だああ」と泣き始めた。昨年まで普通に蟻を捕まえ、ダンゴムシで遊んでいた次女は今年になって虫が怖いと言い始めた。それは幼稚園で他の女の子は怖がるとみて集団生活で虫を見ると=女の子が叫ぶ、逃げるというリアクションを習得したからだ。でも民族によって虫は大事な栄養だし、ママは田舎でたくさんの虫と一緒に暮らしたようなものだと説明すると、彼女も「じゃあ、ピンク色の虫パンだったら…」と納得し始めた。絵が得意な長女はすぐに「虫パン」を書き始めて、そして絵をよく見ると「逃げたパン」というタイトルとなって、描かれた虫パンの上の虫は逃げ始めていると気づく。

この朝の会話で生まれた「虫パン」のイメージがしばらく頭から離れなかった。女の子は虫が怖いということもこんな小さい時から覚えるし、それより虫だらけのパンの絵が印象に残る。ルーマニアで子供の時に初めて暗記したお祈りの言葉の中ではpâinea noastră cea de toate zilele (私たちの毎日のパン)と pâinea spre ființă (存在するパン)という言葉がある。この祈りは誰でも知っている、何があってもずっと心の中でお経のように繰り返していう。ルーマニアの主食はパンなので、この言葉が示している意味は3つある。生活の糧として食べるパン、魂の栄養、聖体儀礼のパンである。こうして考えていくと、ゴッホが初期に描いた「ジャガイモを食べる人々」という有名な絵を思い出す。この絵で農民が食べているのはパンではなくジャガイモなのだ。階層社会のヨーロッパ社会ではパンがどのぐらい「贅沢」な食物であったかが一つのイメージで伝わる。ルーマニアの農民も、パンではなくジャガイモ、インゲン豆、トウモロコシの粉をパンの代わりに主食としていた。

娘の「逃げたパン」という絵を見ると、かわいい虫たちがパンから逃げるというアニメーションみたいなものを想像させられる。今の時代では当たり前のようにパンを食べられるようになったが、いつかこの子供の絵に描かれているように私たちからパンが逃げる時代が来ると寒気を感じる。当たり前であることの当たり前がなくなる気がした。「今」を生きている私たちがいつかの大昔になって、今の食べ物は珍しいものになる。宇宙へ引っ越しして食べる、飲むようになる栄養ドリンク、チューブの中のペーストと、色鮮やかな丸い透明の薬がお皿の上に並ぶ。お皿も必要がなくなるので、陶芸が別の視線から見る「昔の人間の持っているオブジェ」となり、博物館に飾られる。このぐらいのスピードで世界が変わり、追いつかない者からパンが逃げることになるかもしれない。

こうして妄想をしながら、娘が大好きな「ロボットがいるスーパー」へ向かう。昨年からある携帯会社の店の前に置かれているロボットに触れて、娘たちが大喜び。私はどんなリアクションをするのか観察しようと思ってみたのだが、びっくりしたのは、長女は怖がらず、すぐロボットの手を自分の手で触って、ロボットが混乱して認識できないように無駄に手と指を動かした。それでも娘は血が流れてない冷たいロボットの白い指を触って手を繋いだ。人間の子供はこうして無差別にすぐ触りたくなる、手を繋ぎたくなることがよくわかった。娘は「かわいい」とロボットに話しかけた。

人間はこうやって触ろうとするということも、未来ではA Iは人間とはどんな動物だったのかを分析するデータとしてこの文章を見つけるだろう。人間とは触るのが大好き。人間の手は、柔らかくて、温かい。それは恋しいともいう。子供が生まれた時も抱っこしていると最初に感じるのは、「あたたかい、柔らかい感覚」。未来のA Iは人間とは自分の脳に騙されて生きていると思うかもしれない。たとえば、愛という幻はそうかもしれない。でも、私はこのぐらい騙されてもいいと思う。愛だけはパンの変わりにあってもいい。これは人間にとっては栄養だ。毎日のパンのようなものだ。A Iと手を繋いで歩く未来の人間も想像できる。その時には電波で脳が繋がるし、お互いにイメージでお話しができる。もしかしたら、コミュニケーションの面で少し楽な世の中になる。

この前は映像人類学を教える授業で私が尊敬している研究者の映像を見せたら、学生が「匂いまで感じる」、「音楽がすごい」、「触ったような感覚」と言われた。当たり前だが「イメージ」とは五感を通すということを忘れてはいけない。特に若い子はこう感じると気づき、嬉しかった。こうしてみると毎回、新しい命が生まれ、世界がすごいスピードで更新されることは悪いことではない。速度が速いと感じる者もいれば最初からこの速度に合わせて生まれる者もいる。

私の脳に詰まっている祖父母の家のイメージ。匂い、音、家の伝統的な織物の飾りの色、祖母が糸から織った寝巻きの触り心地、風に揺れるカーテンとたくさんの窓からくる眩しい光、庭の葡萄の木の葉っぱの動きと花の匂い、割れるまで成長し、爆発しそうな赤いトマト、キャベツ畑に集まる何百何千ものモンシロチョウ、豚小屋から聞こえる豚のいびきと卵を生む鶏の声、私の足を刺した後に針を無くして死んだ蜂の葬式で忙しい私は、刺されたところが痒い。庭で集めていた死んだ虫のお墓にたくさんの花を飾り、痛痒くて耐えられない足を塩で揉んで、蜂の小さな透明の針を抜いて踊り始める。逃げる虫を追いかけて、足で土を踏んで踊り続けた。

別の授業では、伝統芸能が400年以上前から人から人へ伝えられて、毎回更新されるときのことを喋りながら、将来では人から人へ、ではなく人からA Iへ、そしてA IからA Iへと伝えられることを自然と想像し、必ず続く踊りを想像した。もう一度、娘の絵をみるとパンの上の虫の動きはどうしても踊りにしか見えない。そうか、見方自体でものもスピードも変わる。逃げたパンではなく、踊ったパンというタイトルでどうかなあと娘に聞いてみる。この前もスーパーの駐車場で大きなスピーカーからオルゴールのような音楽が流れて、娘と3人で踊り始めた。駐車場で踊るのも初めてだ。

昨年見た夢。祖父母の村で他の子供と裸足で遊んでいたら、突然大きな音とともに地面が揺れて、目が耐えられないような光と爆発で倒れる。「逃げて」という声に従い祖父母の家に向かって埃と煙を吸いながら、逃げようとしている子供の自分がいた。すると、家の遠く、駅の近くに原発のような建物が見えて、その上にもう一つの太陽が煙の中で光っていた。太陽が二つあるようなイメージだが、家の向こうの太陽は少しずつ核のような丸い光に変わって、周りから「そっちに見ないで、目が見えなくなる」という声が聞こえる。「もう、遅い、見ちゃった」と思いながら夢から覚める。

火星には二つのお月様があると娘に絵本を読んで知ったが、綺麗な景色だと思いつつ、もしかしたら、独裁者は火星のお月様が一個、ほしいのではないか、とつい思っちゃった。