草を食む。

越川道夫

今ということを味わっている。
味わっているとは、言葉通り「食べている」ということである。野の草を食べることにしたのだ。今までも、猫の額ほどの小さな庭に生えるユキノシタや明日葉を摘んできて、天麩羅にして食べるほどのことはあったが、今年の春はそれどころではない。虎杖をポキっと折れるところまで折ってきて、皮を剥いだ茎をさっと茹でてポン酢をかけたり炒めたり、思いつく限りのことをして食べる。すると、これが独特の酸味があって爽やかでうまい。虎杖だけではない。蓬を、蒲公英を、野芥子を、ハルジオンを、酸葉を、三つ葉を、蕗を、伸び始めた葛の芽を、蕎麦の葉を、羊蹄を食べる。カキドオシの紫の花が咲き始め、その葉を摘んできて茶にして飲む。いただいた白木蓮の花を、食べられるからと天麩羅にしたのが始まりだったかもしれない。大ぶりな白く開き始めたばかりの花を丸ごと天麩羅にして食べた。すると生姜に似た風味の中に花の甘みが口の中に広がり、その初めて口にする「味」にひどく感心してしまったのだ。野の草の味は、スーパーで買ってきた野菜たちの味とはまるで違っていたし、「旬」ということがあるのならば、これこそが「今の味」であった。春は駆け足で去っていき、野の様相は刻々と移り変わり、少し目を離すと今まで生えていた草が、もうその後から勢いを増して伸び始めた草の下になり見えなくなる。同じ草でも日が経つにつれ、柔らかかったものが固くなり食感だけでなく味すらも変化する。面白いのは、野の草を食べようとすると、そのどれもが微量の毒を含み、その毒が独特の風味にもなっているのだが、また別の草にその毒を打ち消すような効用があって、それもまた微量の毒を含んでいるということだ。
 
今までは野の草を見ることが楽しみであった。見ることが楽しみなのであって、名前はそれほど重要ではない。名を知っている草もあれば知らない草もあり、何度調べても名を覚えることができない草もあった。だが、それでも構わないのだ。その草ひとつの個性豊かた形を愛でることが楽しいのであって、草はどんな草でもただ生えているだけでよかった。その受用は今も変わらないといえば変わらないのだが、食べ始めるとその草の名前を覚え始めたのは何故だろう。愛着だろうか。確かに、野の見え方が今までとは変わってきたのを感じている。親密さ。その親密さとは、私はそこの草を食べ、草はそこに生えている。私も草も同じものだというような「親密さ」である。私は外から来て、その「草」を鑑賞する者ではない。「私」と「草」は同じ場所に「生えている」というような…。
 
昨年来、身の回りで何人もの人たちが、この世を去っていった。先月もまた出会って数十年になる旧知の友人が逝き、数日前にも年長の恩人とも呼ぶべき人が亡くなった。仕事場に向かう川縁には大きな桜が連なって生えており、毎年春の時期には人の目を楽しませてきたものだが、昨年の秋から冬にかけて、おそらく行政の指示を受けた業者がやってきてその枝を伐採していった。理由はいろいろとあろうが、それは「無惨」としか呼びようのない切り方であって、今年も桜は咲くには咲いたが痛々しいまでの有様となり、例年に比べ足を止める人の姿も寂しかった。近所に道を覆わんばかりの見事なスダジイの大樹があるのだが、これもまた道に張り出した枝をバッサリと切ってしまい変わり果てた姿を晒している。木に何か憎しみでもあるかのような切り方なのである。胸がつぶれるような思いを抱きながら、野の草を食みながら、私はダラダラと長く生きていようと思った。まもなく桑の実が赤く熟れる。