⾼橋のふたつの側⾯

ピーター・バート

2枚のCD、肖像を描いたふたつのコンサートのライヴ録⾳

⾼橋悠治の第1の側⾯は、1960年代の⾼橋である(そしておそらく、⻄洋のある世代の者は今もその印象をもっている)。つまり、作曲家で現代⾳楽における輝かしいヴィルトゥオーソであり、「鍵盤楽器に課された前代未聞の要求を、ものの⾒事に弾きこなし」(ロジャー・レイノルズ)、「演奏不可能」な前衛的複雑さをもつ作品をこともなげに演奏する⼈。「1961年にクセナキスの《ヘルマ》の楽譜を受け取り、1 ⽇1ページ、多くて1時間くらい練習し、1ヶ⽉で準備した」*という⾼橋は、ベルリンでクセナキスに作曲を学び、⾳節の多い単語をタイトルにした、厳格に決められた構造をもつ挑戦的な作品を書いた。「密度、持続、動きのパターン、リズムは確率計算から」書かれた《メタテーシス Ⅰ》(1968)、「ピッチと時間感覚は確⽴計算」によって書かれた《クロマモルフⅠ》(1964)、「18世紀の数学者レオンハルト・オイラーによる⼀筆書きの数学理論」に基づく《オペレーション・オイラー》(1968)がそうした作品である。“Six Stoicheia”という欧⽂タイトルをもつ《6つの要素》(1964)(“Stoicheia”とは、ギリシャ語の数学者エウクレイデス[ユークリッド]の著書『原本』の意であり、「ステップ」もしくは「要素」の意)は、複雑なポリリズムとマイクロトーンのある、恐ろしく演奏が難しい曲である。《ローザス》(1975)は、「ステンドグラスの薔薇窓純正律の⾳階を短7度で4回積み重ねた⾳階 調⼦外れに感じられる」と⾼橋が述べる作品。クセナキスのもとで学んでいた時期について、「ベルリンには、アラン・ダニエルーによる⽐較⾳楽学研究所があった。よくそこで本を読んだり、⾳楽を聞いたり、インドやイランの⾳楽家に会った」*と⾼橋は述べているように、すでに次なる⾼橋、すなわちもうひとつの側⾯である、第2の⾼橋へ移⾏する予兆がある。このCD に収録されている1960年代後半と1970年代の作品には、そうした第2の肖像がみえる。作曲にあたり「CDC6400コンピュータを⽤いた」という《般若波羅蜜多》(1968)は、録⾳済の3層にライヴ演奏を重ねることで実現される。テキストは般若⼼経の原⽂であるサンスクリット語からの抜粋。《和幣(ニキテ)》(1971)も、「⼿順は機械化され、コンピューターにかけられ、数秒間で完了した」というコンピュータを⽤いた作品であるとともに、「ニキテ(和幣)は⿇や紙のふきながしで、異教の祭で霊をよびおこすためにつかわれる」ものであり、さらには「⾳の構造よりも⼈の関係を重視する」。《歌垣》(1971)というタイトルは、「春(秋)分に⾏われる古代⽇本の祭り」からきている。「ペアを組むが⽇の出前に別れる運命にある男⼥が集い、グループ間で交換する歌」を反映したピアノとオーケストラが掛け合う作品。

そして時は流れ、⾼橋は急激に政治的な出来事へ積極的に関与するようになり、「ヨーロッパの⾳楽は極度に発展し、いまや⽅向を変えるときがきた」と、⻄洋の前衛に幻滅する時代がくる。そのこと⾃体が政治的な背景を持つ問題だった。「20世紀⾳楽は、いままでに獲得したもの上に、特殊な⾳⾊や奏法、複雑なうごきを付け加えただけだった。“あれもこれも”という消費の加速のはてには、⾳楽の死が待っている」。つまり20世紀の⾳楽は「17世紀以降に始まる植⺠地主義と奴隷制に⽀えられた貪欲な⽂明の表現」*であり、⾔いかえれば、政治と関連し他の⽂化に強い影響を与えていた。「アジア・アフリカ、ラテンアメリカは、経済的・政治的・軍事的に、帝国主義・新植⺠地主義の⾷いものにされている。⽂化や芸術の領域も例外ではない」。しかし、抵抗運動もあった。「⺠衆の声は強く、するどい。それは抑圧に負けないだけでなく、すすんで敵を攻撃しようという姿勢をもつ。(中略)アジア⼤陸、半島、島々の⺠衆の歌声は、こうした特徴をもっている」。もちろん東洋のすべてではないとして、続けて⾼橋は、アジア半島および島々のなかで「アメリカによって温存され、助⼿役をつとめながら勢⼒をのばした」と⽇本の帝国主義的態度について記す。ここで⽇本の伝統⾳楽は例外になるのだろうか?答えはNoである。というのも、「⽇本の伝統⾳楽は、さまざまなアジアの要素を取り⼊れている」*からだ。これは伝統的なマルクス主義の“国際主義”に反することだろうか。それとも新しい主義のもとにある“汎アジア”的なナショナリズムだろうか。それも答えはNoである。「固有の⽂化価値の再⽣は排外的⺠族主義ではなく、さまざまな伝統の相互学習によって、鎖国状態から脱出することを必要とする」。むしろ必要なのは、「⺠衆の側に⽴ったもう⼀つの国際主義」なのだ。

そしてこの2枚のCDには、今80歳代を⽣きる第2番の⾼橋(1938年⽣まれ)の肖像が収録されている。初期の⾼橋作品の所在はわからなくなっている。つまり1960年代の楽譜は出版社のカタログから削除されている(したがって、初期の作品を演奏し録⾳するためには熱⼼な学者による国際的な探偵のような調査が必要となる)。著作権はコピーレフトとされ、スコアはオンラインで無料で⼊⼿できるhttp://suigyu.com/yuji_takahashi/。“楽譜”というのは、そもそも疑わしいものなのだ。「⾳楽はもはや楽譜として固定された構築物ではない。⾳を聞いたり、楽器に触れたりする演奏をとおしてなりたつという、⾳楽の原点に帰るものである」*。そこでは⾳を出すという物理的な⾏為が優先される。「⼿や指、息で楽器に触れたとき、⾳は⽣まれる」*と⾼橋はいう。あるいは、《さ》(1999)の作曲家の⾔葉にあるように、「唇、左⼿のバルブ、ベルに⼊れた右⼿の組み合わせ」で⾳が鳴る。⾼橋は、国際的なコンサートという場を放棄した。しかしその代わりに、特定の演奏家のために作品を書いた。ロシアのチェリスト、ウラジーミル・トンハーのために書いた《⽯》(1993)、オーストリアのアンサンブルのために書いた(しかし、所望された写真を作曲家が送らなかったために委嘱が取り消されたという)《タラとシシャモのため》(2015)、「楽譜を送ったがその後依頼者とは⾳信不通」になったという《散ったフクシアの花》(2010)。東洋の⾳楽、演奏の実践、儀式からの影響による作品もある。《さ》はそのひとつ。「古代⽇本語で“さ”という⾳は、霊的なものに満たされた状態をあらわしていた。(中略)この⾳楽は、ホルンという楽器にその記憶をとりもどさせるための、⼼をこめた儀礼だと、考えてくれてもいい」と作曲家は記している。とはいえ、⾼橋の⽬が⽇本に向けられ、排他的になったのではない。ほかの⽂化からの影響もあることが「もうひとつの国際主義」を物語っている(たしかに⾼橋が百科事典的に多⾔語を読むことができることを証明している)。《散ったフクシアの花》は、ダイアン・ディ・プリマによる俳句4⾸、《タラとシシャモのため》はヴォルフガング・ボルヒェルトの詩「灯台」、《あえかな光》(2018)はウィリアム・イェイツの詩「⾁体の秋」(1898)による作品であり、また《⽯》はオシップ・マンデリシュタームの詩「沈黙」の⼀節を演奏前に朗読する、といった指⽰がある。

「⾼橋は、鍵盤楽器の優れた演奏家であり、作品解釈にきわめて鋭敏な感性をもち、それまで考えられなかった⼿法を必要とする創作を次々とこなした若きヴィルトゥオーソの時代から、持ち前のキャラクターや理知的な探求⼼を失うことなく、⾃⾝の主義主張を満たす選択をして⼈⽣を歩んできた」(ロジャー・レイノルズ)。しかし、このCDに収録された演奏でとくに印象的なことは、あらゆることが継続しているということである。「きく者の興味をおこさせるが、⼼にうったえることはしない」と述べていた頃と同じように、今⽇の⾼橋の⾳楽は妥協を許す余地はなく、⾏者のような厳しさがあり、ストイックである。そして1960年代と同じように今も、パフォーマンスに重点がおかれている。「演奏する者がいてこそ⾳楽がある。演奏とは、物理的な⾏為でもある(中略)⾳を作るとは、⾳に触れ、⾳を聴くことを通して外界を探ることを意味する」*。若きヴィルトゥオーソだった⾼橋は、1960年代にそれを知っていた。このCDでは、⾼橋からみたら⼆世代後になるヴィルトゥオーソたちが演奏している。若い彼らは、⾼橋の初期の作品にみられる⼿、指、息といった感覚に彼ら⾃⾝の神経を集中させながら、若い⾼橋の感覚も若い各々の感覚も即座にとらえたことが前⾯にでている演奏をしている。2 枚のCD、肖像を描いたふたつのコンサート――いや、究極的には唯⼀である⾼橋という存在がこの2 枚のCD には収められている。
(訳・⼩野光⼦)

訳注)⽂中の引⽤は、楽譜やプログラムに掲載された作曲家の⾔葉、および下記の書籍から。
『ことばをもって⾳をたちきれ』(晶⽂社、1974)
『⾳楽のおしえ』(晶⽂社、1976)
『たたかう⾳楽』(晶⽂社、1978)
Yūji Takahashi (with Jack Body), ʻWie eine rollende Welle: Yūji Takahashi in Gesprächʼ, MusikTexte 59
(June 1995)
*のつく引⽤は、英⽂からの和訳、およびドイツ語からの重訳。