しもた屋之噺(229)

杉山洋一

どういう理由かわからないのですが、夜中の0時の時報とともに、外で花火が盛んに打ちあがっています。今日がロンバルディアがイエローゾーン最後の週末で、変異種感染が進んで来週からまたオレンジゾーンに戻るため、飲食店の店内飲食が禁止になる前の、最後の夜だからかもしれません。
今から一カ月前、ロンバルディア州のフォンターナ知事が「皆さんの努力のお陰で感染をここまで減少させられました。イエローゾーンになることが決定しました」と嬉しそうに話していたのが、遠い昔のようです。ワクチン接種が進み、世界が安心して生活を営めるようになるのを、切に祈るばかりです。
 
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2月某日 ミラノ自宅
今日からロンバルディア州はイエローゾーンになる。久しぶりに飲食店での店内飲食が18時まで許可されて、市をまたぐ州内の移動が自由。22時から5時までの夜間外出禁止令は続行される。美術館は再開されるが、演奏会や劇場の閉鎖は継続されるそうだ。10月末に劇場が閉鎖以降、聴衆を入れた演奏会は未だ再開されない。当初閉鎖は一ケ月、二週間の時点で状況を鑑みて開放を検討と話していたが、三カ月過ぎても変わらない。世界中でストリーミングの情報量だけが膨大に増えてゆく。イタリア新感染者数7925人。陽性率5.5%。死亡者329人。
 
2月某日 ミラノ自宅
小野さんから、表紙に「冥界のへそ」と書かれた楽譜があると伺い、内容を悠治さんに確認していただくと、違う時期の試作のコピーだった。アルトーの詩の朗読と、軋り音サンプル録音の変形を併せたテープ音楽が「冥界のへそ」で、それとともに「フレーズを書いた数枚の楽譜を低音楽器群に演奏させたもの」が「アントナン・アルトーへの窓」だと言う。だから、本来「冥界のへそ」の楽譜そのものもあるはずがないのかも知れない。悠治さんより、「冥界のへそ」の京都での録音が存在するらしいと伺ったので調べてみたい。作曲者本人にすれば別段興味もない話に違いないが、作曲は完成して世に問われた時点で、作者の手を離れて社会性を手にするともいえる。イタリア新感染者数13189人。陽性率4.7%。死亡者476人。
 
2月某日 ミラノ自宅
父が85歳になった。大層矍鑠としていて、自分の父親ながらただ感嘆し深謝している。
夕方ミラが連絡をしてきて、今日は運河地域の先でボランティア活動だから、帰りに寄ると言う。これから毎週、運河の向かいのルドヴィコ・イル・モーロ通りの外れで、滞在許可に問題を抱える外国人の相談窓口を担当すると言う。
以前からアムネスティ・インターナショナルとも親しかったから、その関係だろう。シリンで使っていたピアノの下敷きも持って来てくれる。
必要とあらば彼らに弁護士を紹介し通訳もし、病院に付き添ったりもする。ここ数年、熱心にアラビア語を勉強していたのはこのためだったのか。こうした事情があるから、優先的に明日最初のワクチン接種を受けるのよ、とガッツポーズ。イタリア新感染者数10630人。陽性率3.9%。死亡者422人。
 
2月某日 ミラノ自宅
Covid19のミラノ変異種発見のニュース。ミラノ大研究グループの発表によると、ウィルスはスパイクタンパクからではなく、ORF6タンパクから侵入する特徴があるそうだ。現在のところワクチン効果に影響なしと読んで安堵する。
イタリアの感染者の5分の1はイギリス変異種が占めるようになり、この変異種をvarianteと呼んでいるが、この言葉を初めて聞いたとき、思わず中世写本の異本を思い出した。
当初は書士や修道士の意志が介在していたのか知らないが、繰返されるたびに少しずつ変化を来し、何時しか当初の姿はみる影もなくなる。文化や文明も変わらない。ウィルスも一つの文化なのか。
2021年であっても、止められない変化も予測できない未来も昔と同じ。イタリア新感染者数15146人。陽性率5.1%。死亡者391 人。
 
2月某日 ミラノ自宅
武満賞を受賞し中国に戻った王君から、三週間の隔離機関が漸く終わったと連絡をもらった直後、「今しがた、ひどいニュースを見ました。ご家族は日本にいらっしゃいますよね。皆さん地震は大丈夫でしたか。心から心配しています」とメールをもらう。
授業をしていて知らなかったので、慌ててニュースを付け、日本にも連絡して無事を確認したが、酷く慌てたことは言うまでもない。
王君は2008年中国を襲った大地震で家を失い、家族中が大変な思いしたので、到底他人事とは思えなかったと言う。イタリア新感染者数13532人。陽性率4.6%。死亡者311人。
 
2月某日 ミラノ自宅
自宅待機が終わったところでTから連絡をもらい、モンツァ近郊のオレーノまでイラリアの墓参にでかける。近所のサンクリスト―フォロ駅からサロンノ行の近郊電車に乗って、自宅脇を通り過ぎモンツァまで40分ほど。久しぶりに車窓から眺める風景は、この数年で思いの外変化していた。
ポルタ・ロマーナ駅やセスト駅の広大なヤードは、長年放置されて草生す鄙びた佇まいが魅力だったが、都市再生計画なのか、きれいに剝がされた錆びたレールばかりが、一所に山積みになっていた。久しぶりにモンツァを訪ねると、完成したばかりの真新しい出口階段にTが立っていた。
彼はスイスで椿姫を準備していたが、ドレスリハーサルを終えたところで劇場は閉鎖され、11月に延期になったと言う。春にはロシアで仕事があるが、この調子ではどうだか、と溜息をついた。
オレーノに着くころには寒も緩み、青空が広がっていて、背の高い梢にかこまれた集合墓地は、年季の入った漆喰の外壁からして、随分古い墓地のよう。温かい日差しに深緑の芝が映えていて、心地よい。
門を過ぎると、まず墓石に彫像などを誂えた記念墓地群がならび、その奥、剥げかけた古いレンガ造りの門の先に一般墓地がみえた。
その門をくぐってすぐ左手空地の一番手前に、未だ墓石もない、真新しく掘り起こされた墓があって、賑々しく春の花がたくさん供えられていた。
鉢植えにしようかとも思ったが、結局供花は切り花にしてよかった。鉢植えは沢山供えられていたし、供えられていた供花は少し萎れかけていた。盛り土された墓に立つ、小さなイラリアの近影は、思いがけず昔のままだった。
隣でTは涙ぐんでいたが、当然だろう。イラリアの後、彼の父親の容体が急変し、ごく普通の70歳だった容姿が、二週間ほどで100歳のようにすっかり老け込んだと話した。
今は一時でも多く傍にいてやりたいと話す。せめても自分の演奏会のヴィデオを見せてやっているんだ、と辛そうに話した。「普通の演奏会じゃ詰まらないだろうから、オペラものを選んでね」。
裁判官だった彼らの父と最後に話し込んだのは、朝の通勤列車でミラノに向かうときだった。Tの活躍ぶりを目を細めて話し、イラリアの将来も大層愉しみにしていた。イラリアの墓参はもちろんだが、長く会えなかったTの顔も見たかった。帰りの電車に乗った途端に空が曇り出し雨粒もこぼれてきた。家に着くころには、すっかり凍える真冬の陽気に戻っていた。
イタリア新感染者数10386人。陽性率3.8%。死亡者336 人。
 
2月某日 ミラノ自宅
五十路を過ぎ、益々自らの無知に唖然とする機会が多くなった。若いころは、無知の事実にすら気付かず過ごしていたに違いない。
マルトゥッチの楽譜を読みはじめて、想像していたドイツ純粋音楽的などとはまるで違う、明らかにイタリア的な作曲家だと瞠目する。譜面の印象だけを見れば、ブラームスなどより、寧ろ   ヴェルディが近いとも思う。単に、オペラではないだけだ。ドナトーニにも近い譜面の書き方だと思う。
イタリアにはイタリアらしさが明確にあって、生真面目で観念的ではない音楽観がその礎にある。観念的でないだけ分かりやすい筈だが、どうにも弾きにくい箇所が散見されるのは、楽器が鳴りにくい調性のせいか、彼自身がピアニストで、ピアノ奏者的な音の運びをするからだろうか。そんなところもドナトーニに似ていると独り言ちた。
イタリア新感染者数12074人。陽性率4.1%。死亡者369 人。
 
2月某日 ミラノ自宅
昨年、イタリア、ロンバルディア州のコドーニョでCovid19の患者第一号が確認されて一年になる。1年前、薬局に貼られていた「マスク売切」のステッカーは、現在はワクチン接種の手引きにとって代わられている。
一周年記念式典のためインタビューを受けた市民のなかには、毎朝、無事に一日が過ぎるようまず神に祈る、と答える男性もいた。ヨーロッパのCovidはあの時から一気に顕在化し、人々をなぎ倒してゆきながら、誰にも想像できなかった一年が過ぎた。
16日から、イエローゾーンのロンバルディア州の一部が限定的にレッドゾーンになり、都市封鎖が決まった。ボッラーテのように、どこも大都市とは呼べない小さな市町村だ。これら全て変異種の感染拡大によるもの。イタリア新感染者数15479人。陽性率4.8%。死亡者353人。
 
2月某日 ミラノ自宅
般若さんのためのヴィオラ曲は、讃美歌「Shall we gather at the River 河のほとりであいましょう」とグレゴリア聖歌「De profundis clamavi ad te深き淵よりあなたへ叫ぶ」に基づく。上野で般若さんとお会いしたとき見えていた風景を、どう音にできるか。イラリアの誕生日に彼女の名前で書いた音列を書き終わったのは偶然だが、それが46回の繰返しで、この日イラリアは46歳を迎えるはずだったのも偶然か。イタリア新感染者数13314人。陽性率4.4%。死亡者356人。
 
2月某日 ミラノ自宅
ヴィオラのマリアから連絡あり。昨年演奏するはずだった「子供の情景」を、5月初めにノヴァラで演奏するとのこと。彼女の住むピエモンテ州は、希望すれば教員は誰でもワクチン接種が受けられるので、早速もう一回目をやってきたの、と嬉しそうに話す。2週間後には二回目の呼出しがあると言う。ロンバルディアも暫くしたら出来るわよ、と声が明るい。
「演奏家が感情を込めて弾くのを肯定する反面、作曲で一切感情は込めないと強調するのに理由はあるのか」と山根さんから質問を受け、しばし考える。
イタリアで一番苦労した部分だからに違いない。ドナトーニから音の裏には何もないと言われても、何年も理解できなかった。
指揮を勉強するようになって、同じ壁にぶつかった。音楽は感情を込めて演奏するものには違いないが、音符そのものは感情をもたない単なる記号と理解するのに、長い時間が必要だった。
先日、浦部君が書き上げたばかりのオーケストラ曲を見せてくれたが、立派に自分の言葉を話すようになったことに大変感心した。昨年見せてもらった久保君のチェロの独奏曲からも同じ感銘を受けた。二人の音楽には、明らかにイタリアで過ごし、それぞれが自問自答しながら過ごした、真摯で誠実な時間が刻印されている。
ところで、浦部君や他の学生の指揮を見ながら、ある感覚をどう説明すべきか思案してきたが、先日ベネデットのレッスンの際、思い切って音が聴こえた後に拍を入れるよう指示してみて、漸く少し腑に落ちる。言われた本人は訳が分からず当惑していたが、今までの説明の中では最も具体的で本質に近い表現だと思う。
音に触れながら振るよう指示してみたり、表現を変えながら同じ感覚を伝えてきたが、音の質量と重量が重力によって落下するなかで、着地直前まで拍を打たずに我慢するのはとても勇気が要る。しかし落ちきる前に音に触れてしまうと音楽が上滑りし、運動がいたずらに消費される。
子供のころ落下傘花火が好きだったが、音はゆっくり落下する落下傘花火に似ている。
イタリア新感染者数20499人。陽性率6.3%。死亡者253人。この新感染者数は元旦以来だと言う。死亡者数が減少し、新感染者数が増えてゆく。変異種が新しい波を起しかけているのだろうか。
 
2月某日 ミラノ自宅 
カリフォルニアのロジャー・レイノルズからメールが届く。悠治さんのCDをとても喜んでくれて、写真嫌いの悠治さんのポートレート写真が撮れただけでも凄い、昔の思い出が、次から次へと頭に浮かんでくるね、とある。
ヤニス・クセナキスとフランソワーズにユージが紹介してくれたエオンタ初演の際、金管楽器奏者が各パート一人ずつでは吹ききれずに、ブーレーズが二人ずつに増やして交代で奏させざるを得なかった逸話などが綴られていて、添付された彼のテキストには、悠治さんがサンフランシスコ音楽院でピアノ教師をしていた時には、悠治さんが余りにも易々と弾け過ぎて、目の前の学生がなぜ黒鍵のエチュードが弾けないのか理解できなかった話や、カリフォルニア大サンディエゴ校で自作を指揮しながらリハーサルする様子にも触れている。
それによると、演奏を始めるや否や、2小節めトロンボーンは遅れています、3小節目のクラリネットは音程が高すぎます、と言った調子で、静けさのなかで、何時間もかけて出来るまでリハーサルが続けられ、それは宗教儀式のようだったそうだ。。

これは、サンディエゴで悠治さん指揮で演奏された「和幣・ニキテ」の練習風景に違いない。ニキテは儀式でこそないも知れないが、宗教儀式に近いから、あながちレイノルズの指摘は間違っていない。
現在の悠治さんのリハーサル風景とはまるで違うけれど、少し想像できる気もする。確かに「あえかな光」の練習風景は、静けさに包まれていたし、訥々と悠治さんが各所の響きを確認してゆく姿は、儀式のようでもあった。
 
スタンフォード大のベンジャミン・ベイツから連絡あり。「歌垣」CDを図書館に入れてくれるとのこと。
ロンバルディア州の感染は拡大し、来週からまたオレンジゾーンに戻り、飲食店は持ち帰りのみ。演奏会開催など夢のまた夢。イタリア新感染者数18916人。陽性率5.9%。死亡者280人。

2月28日ミラノにて