『アフリカ』を続けて(11)

下窪俊哉

 前回の続きで、井川拓『モグとユウヒの冒険』を本にする話。自分で立てた予定を押しに押して、4月の終わりが見えてきたところでようやく仕上げ、入稿をすませたところだ。
 締め切りがないといつまでも仕上げることが出来ない、とは思うけれど、あまり締め切りに急かされるのも嫌だ。焦って、納得していない状態のまま出してしまうのは止めたい。ただ、どうなったら納得するのか、と言われるとうまく説明出来ないのだった。これでよし! という瞬間は必ず訪れるので、そのタイミングでいったん終わらせる。そういう瞬間がいつまでも来なかったら? なんて考えるのは止そう。いつかは来るのだから。
 完璧な仕事はない。完璧を目指していたら永遠に完成しない。少しだけ欠けたところのある方が親しみやすいかもしれないし、つくっている人たちの手が感じられる。ついでに言うと、ミスも面白い方がよいかもしれない。文章であれば読んでいるうちにどんどん自由になってゆき、ついには文字が踊り出して飛んで行ってしまうというのをよく思い浮かべる。とはいえ、今回の本は遺稿であり、著者に何か提案したり、相談することが出来ない。自分の仕事は読めるように、読みやすいように整えて、なるべくそのまま出すことだ、と考えていた。

 私は本や雑誌をつくるのに編集会議をしない。編集するのは自分なのだから、やりたいようにやりなさいよ、と声をかけてあげるくらいだ(自分で自分に、ね)。ただし決定するのが自分だというだけで、相談はする。いつも誰かに相談していると言ってもいいくらいだ。『モグとユウヒの冒険』の場合、著者の姉・伊東佳苗さんとは殆ど毎日のようにやりとりをして、お互いの感じていることを言語化してキャッチボールしていた。装丁と挿画を頼んだ髙城青さんは、もう少し引いた視点で制作中の本を眺めて、その見え方を話してくれた。集まって話をすることはない。いつでも個別に、1対1でやる。校正にかんしてはいつものように黒砂水路さんに手伝ってもらった。彼は私の気づけないようなミスをしっかり指摘してくれるし、今回はルビの提案もしてくれた。それから、映像制作集団・空族の富田克也さんとも久しぶりに話せた。著者が生前、どんなふうに創作活動に向かっていたかを一番よく知っているひとりではないか、と思って声をかけたのだった。私の書いた井川拓伝というべき解説も、富田さんが追悼文集に書いた文章「二度目の不在」が手元になければ書き得なかったかもしれない。没後11年たって、いまだから話せることもあるから、と何時間も話し込んだ。
 そうやって話をしてゆくと、自分の知らなかったことも出てくるし、ただ読むだけでは感じられなかったことも感じられてくる。本をつくるということは、その作品を新たに読み解いてゆく、ということなのかもしれない。その作業がないとどうなるかというと、いわゆる本という既成の枠組みに作品をはめるだけになってしまう。ある程度は仕方がないとしても(本ができないのも困る)、それだけでは私は納得しない、というか大いに不満なのだ。

 そうなると、手元にあるゲラが未完成の原稿なのだ、というニュアンスが自分の中で強まってきた。これは遺稿なのだ。そのまま出せばいいのだと思う一方で、本にするからには完成させなければ、という気持ちが出てきた。そう思ったところで著者はもういないのだからどうしようもない。あのとき死なないでほしかったよまったく。その憤り(?)は、校正でピークに達した。最初の頃は、明らかなミスだけを修正しよう、などと言っていた。しかし、どこまでが明らかで、どこからは明らかでないのか。加筆が必要なミスは、どう加筆するのか。迷いがあったのだが、やってゆくうちに吹っ切れてきて、「著者はおそらくこんなふうに書きたかったのだろう」という想像を元に修正することにした。例えば印象深かったのは、「悴(かじか)む」ということばを、こどもが家では泣き虫なのに学童保育所では泣けない訳として書いている箇所で、佳苗さんから出てきた「心が悴む」にしたらどうか? という提案。あれには痺れた。心が悴むかあ。そこの加筆は「心が」の2文字ですんだ。

「井川くんから完成物というものを受け取った試しがなかった」と富田さんは言っていた。20代の頃、富田さんは映画をつくりたい、井川さんは小説を書きたいと話して、お互いの創作物を見せ合っているような仲だった。「俺には、映画は完成させなきゃって言うわけ。そういうもんかあと思って感心してさ、頑張るんだけど、そう言う彼はいつも出来ないの。最初、すんごい抽象的な構想だけぐわーっと聞かされて、こっちは待っている。そろそろ書き終わるのかなと思っていたら、何だか途中で息切れしてる。いやあ、ダメやわ、とか言って。で、次の作品の構想に行くんだけど、やっぱり完成しない。延々とそれをくり返してるような人で、本人も思い悩んでいた」
 でも映画は共同作業なので、映画『エリコへ下る道』のシナリオはいちおう書き上げられて、ある程度まで撮影されたらしい(どんな映画だったのか、いつか機会を設けて書きたいところだ)。でも、「彼が本当に書きたい小説というものにかんして、完成したことは一度もなかったんじゃないか」と言う。
 私は亡くなる直前の8ヶ月間の付き合いしかなかったが、そういう人だったと言われて驚きはしない。まあそうだろうと思う。だから、そんな彼が『モグとユウヒの冒険』をかなりのところまで仕上げて、残してあったことの方に驚いたのだ。これはある種の奇跡なのかもしれない。いや、そうやって煽るのは止めよう。それまでの構想は全てボツになったとしても、これは書けた。『モグとユウヒの冒険』の構想は、持続するもの、長く生きるものだったのだろう。よく書きましたね! と声をかけてあげたいのだ。
 富田さんはこんなことも言っていた。「子供のために書くんだとか、例えば甥っ子のためにこれをつくるんだとか、そういうふうに限定してやったことで完成させることが出来るというか。本当の意味で広げた大風呂敷というのは収拾不可能で、自分の文学的達成というのはそこにあったんだろうけど、児童文学を目指したのは対象を限定するということだったんじゃないか。自分の内側にあるものを吐露しようとしたら完成させられないんだけど、誰か人のためにということになって初めて、書けたんじゃないかな」

 何だかわかる気がする。私はそこに付け加えて、限定することで広がる、普遍的になることもありますね、と話していた。まだまだこれからの作家だったのだ。