製本かい摘みましては(173)

四釜裕子

田中邦衛出演の映画特集をCSでやっていて、折よく『大日本スリ集団』(1969)を見た。スリ集団の親分・平平平平こと三木のり平と、スリ係の刑事・船越の小林桂樹が主人公だ。船越はひとり娘の将来を心配するあまり、戦友でもある平平に奇想天外なシゴトを頼むのであった……という筋だが、「スリは指の芸術」という平平親分(組合長と言ってたか)による新人教育が可笑しい。最大の道具である人差し指と中指を鍛錬するために熱い湯と水に交互につけたり、両手を上下から背中に回してつなぐのを交互にやったり、自らも、半紙をしわくちゃにしたようなものをちゃぶ台に重ねて、その中からさっと一枚抜き取るような訓練をするのであった。それを眺める若き恋女房、高橋紀子の横顔。ちゃぶ台の端には食べ終えたスイカがふた切れ。手前に黒電話。隣の部屋にはスリ仲間が残した小さな二人の子どもが寝ているようだ。

スリというのは、人差し指と中指でものをつかむことが多いようだ。映画『スリ』(2000)でその手つきを大きく見たことがある。まともに真似ると指がつる。映画では、アル中に苦しむ原田芳雄がスーツを着せたトルソーを前に何度も練習していた。弟子入りしてきた青年には「けなげにやれ!」と喝を入れていた。『フォーカス』(2015)のウィル・スミスはスリというより三代続く詐欺師だったが、弟子入り志願の女性には心理戦を説き、「スリは暗闇のダンス」などと言ってたな。ひたすら「気づかれないように」を信条とする一派とは全く別ものなんだろう。

慶応2年(1866)に生まれ、明治の東京でスリ集団のボスとして名を馳せた仕立屋銀次は、もともと御徒町あたりで仕立屋をしていたのが名の由来だそうだ。指先は器用だったに違いなく、しかし親分になってからは自ら手をくだしたことがないのを”自慢”していたと、本田一郎さんが『仕立屋銀次』に書いている。

〈「わっしゃあ、長えこと掏摸の親分をしていたが、自身で手を下して、他人(ひと)さまの物をかすめたこたあ、ただの一度もごぜえません。これだきゃ、わっしの自慢でごぜえますよ」〉

銀次は紙屑問屋と銭湯を家業としていた家に生まれた。父親が数年後に刑事になり、家にヤクザなども出入りするようになったとかで、十三歳で日本橋の仕立職人のもとへ年季奉公に出されている。年季があけると、早々に結婚して下谷御徒町に店を持つ。腕がよかったんだろう。近所の娘たちが稽古に通うようになり、中の一人と恋に落ちる。その娘の父親がスリの親分で、銀次は実父ゆずりの親分肌だったのか、義父亡きあとはそちらの稼業を継ぐことになる。このとき銀次、三十二歳。

〈銀次は金杉御殿で、愛妾おくにの膝枕をしながら、部下五百の乾分と、全国各地の兄弟分の活動が、手にとる如く判っていた。おくには、銀次の傍にあって、乾分から刻々集まる情報や、稼ぎ高を一々台帳に記入する。台帳は乾分の名前を索引にして、四十二冊ある。〉

こうして羽振りよく稼いだあげくの明治42年、銀次は御用となる。赤坂署に連行されるときの銀次はこうだ。

〈五分刈頭に山高帽を冠り、鼻下に八字髯、本フランネルの単衣物にセルの単羽織をはおり、鼠色縮緬の兵児帯に紺足袋を穿いた。左手薬指には白金の指輪を光らせ、甲斐絹細巻の洋傘を杖いて、ひかれ行く。〉

押収された中に、おくにがいちいち記入したという贓品台帳もあった。

〈贓品台帳は頗る珍品で、西洋紙綴りで厚さ一寸、四六判型に作り、表紙には鴛鴦の絵を描き、二百五十円也というような落書がしてある。〉

三岸好太郎による『仕立屋銀次』の表記絵や当時の銀次のいでたちからすると、この台帳は大福帳スタイルで、おくには筆で書いていたのではないかと想像するが、「西洋紙綴り」で「四六判型に作り」というのはどういうものか。洋紙を切って大福帳みたいに仕立てていたのか。「厚さ一寸」というから少なくとも中綴じではないだろう。そのあたりまで詳しくは書かれていないけれど、本田一郎さんが出所後の銀次に初めて会ったとき、銀次はこう言っている。

〈「ええ、お待たせ申しやした。あっしが銀次でごぜえます。さあ、どうぞ、おあてなすって、洋服じゃ座っちゃ窮屈でげすよ。お楽くになすって下せえ。あっしゃね、こうめえても、でえのハイカラで、若え時分には、洋服がでえ好きでげしたよ」〉

明治の東京で、でえ(大)のハイカラだったスリの親分は、大事な贓品を記すのにどんな帳面を使っていたのだろう。

「市谷の杜 本と活字館」で開催中の「100年くらい前の本づくり」(監修 木戸雄一)の資料を見てみる。日本では1870年代末には本の洋装化が進められたが、需要はあってもその技術や材料が追いつかなかった。それに応えるかたちで〈平綴じの本体にクロスでつないだボール紙の表紙でくるみ、見返しを見開き一枚で接続する〉簡易な方法が広まったのではないかとある。東洋社や慶應義塾出版社が、明治9(1876)年頃から四六判の安価なボール表紙本で啓蒙書を刊行したそうだ。また〈固い表紙を使わず紙一枚でくるみ表紙にする仮綴じ製本〉は官庁刊行物になされていたが、1870年代後半には文部省の「百科全書」などの書籍にも見られるようだ。展示会場ではこれらの実物も見ることができる。

こうした本を銀次も目にはしていただろう。仕立ての腕がある銀次なら、それを見て真似ることもたやすそうだ。はやりの洋紙を重ねて穴三つ、ささっと平綴じして一枚の紙でくるめばできあがりだ。和紙ではなく洋紙、そして背があるだけで、十分ハイカラだったろう。この時分、まだそういう「商品」があったようには思えない。ここで今一度、『仕立屋銀次』で贓品台帳の復習をしておこう。どんなことが書かれていたのか。

〈おくにの手になった当時の台帳を繰って見る。/×月××日 細目の安/午前七時から上野、品川の線を使って午前十時、新橋で金マン一つ。/午後四時、黒門町でナマ三十ぱい。〉

これはやっぱり筆文字がよく似合う。罫線もかえって邪魔だろう。

そこで今度は、webマガジン「文具のとびら」で、たいみちさんの「文房具百年」のバックナンバーを見てみる。たいみちさんが蒐集を続ける文房具の写真も美しく、参照元の資料も明快でとても楽しい連載だ。23回目の「日本の洋式帳簿、その始まりの頃」(2020/03/20)と、41回目の「明治以降の日本の帳簿の話」(2021/11/20)で、明治初期の洋式帳簿についてこう書いてある。

〈明治初期の洋式帳簿はどのようなものであったか。前出の第一国立銀行の社史「第一銀行史」にはシャンドのことと共に当時の帳簿について詳しい説明がある。それを見ると最初からすべて洋式帳簿を使用していたわけではなく、一部は和紙に罫線を印刷したものを綴じて使っている。和風の帳簿に中身は英国の簿記に従った記載方法を、筆記具は毛筆で書いているという、いかにも過渡期を感じさせる状態だ〉。

さらに、明治32年には商法で「商人は帳簿を備へ之に日日の取引其の他財産に影響を及ぼすべき一切の事項を整然且つ明瞭に記載することを要す」と定められたそうだが、これで〈洋式帳簿の利用が進んだということはなく、大福帳などの和式帳簿に一切の事項を整然と書いただけだったという〉。 

スリ稼業に「帳簿」は求められなくても、銀次チームの台帳はやっぱり洋紙を束ねた大福帳スタイルだったかもしれない。そしてここに付け加えたい妄想は、それを銀次自らが作ったということ。銀次は〈子分たちには豆帳を持たせ、いつどこで、いかなる方法でスリに成功したか、日誌をつけさせた〉そうでもあるから、小さな帳面などというのも、ささっと見本を作ったかもしれない。なにしろ銀次は、刑務所でよく裁縫をしていたそうだ。本田一郎さんにそう言っている。スリのボスのくせに自ら手をくださないことを自慢していたなんて、それが親分というものなのかもしれないけれど、どうも銀次は、それを自分の指に言い聞かせていたような気がしてならない。