『アフリカ』を続けて(12)

下窪俊哉

 先月、井川拓『モグとユウヒの冒険』がようやく本になった。長い、長い道のりだった。本をつくるにあたって著者の不在がどういうことなのかを、嫌というほど思い知らされた。著者の家族にとっては、その本が、彼の分身のように感じられているかもしれない。
 本として完成させるにあたって大きな推進力となったのは、彼の姉である伊東佳苗さんだった。本が完成した後で今回の協働作業を「下窪さんとライブやってたよう」だと言っていたが、物語をあらためてくり返し読み、毎日のようにやりとりをしていた。『モグとユウヒの冒険』の主題は、子供時代、家族、そして自然ではないか。家族のこと、人生のことをあらためてじっくり考えてみる貴重な機会にもなった。

 物語の舞台となっているのは琵琶湖の湖北・マキノ。アサヒとユウヒという小学生の兄弟が、父母と共に暮らしてる。父ちゃんは稼ぐのが苦手な陶芸家、母ちゃんは保険のセールスをする職についていて毎日帰宅が遅い。小4のアサヒは学校から帰ってくるとすぐに遊びにゆき、小川で釣りをしたり野球をしたりして夕方に戻ってくる。小2のユウヒは学童保育所にゆき、父ちゃんの迎えを待っている。そんな日常。
 ユウヒはひとりで絵を描いて遊ぶのが好きで、落書き帖に猫と犬が決闘する絵を描いている。猫は家で飼っているハボコで、犬は昔、父ちゃんの実家で飼っていたモグという「牧羊犬を祖先にもつ雑種犬」だ。
 ユウヒにはモグの記憶がないので、父ちゃんの話を聞いて印象深く覚えている、いわば伝説の犬であるモグを絵に描くとしたら想像で描くしかない。ある日、そんな絵を描いているユウヒの耳に「ふわふわとした声」が聴こえてくる。その声の主はモグを名乗り、ユウヒの描いている絵に文句を、注文をつける。
 物語はそんなふうにして始まる。
 父ちゃんには弟がいて、家族から「ダイボーおじさん」と呼ばれている。ダイボーおじさんは15歳の時に事故に遭い、脳に障害を負っていて、何か話を聞いてもすぐに忘れてしまう。父ちゃんは弟の障害にかんして、まだ受け入れられないところがあるようだし、何か悔いているようでもある。
 そうやって『モグとユウヒの冒険』は、アサヒとユウヒ、父ちゃんとダイボーおじさんという世代の違う兄弟の物語が重層的に描かれていると言っていい。
 その家族にはモデルがあり、『モグとユウヒの冒険』は井川拓の家族史と言えそうだ。フィクションを多分に含んでいるので、家族史のようなものと言おうか(小川国夫が「自伝」に「的」をつけて「自伝的」小説と呼んでいたのを思い出す)。
 突出しているのはやはりモグの存在で、著者の実家で飼っていた犬・メグがモデルになったというが、それだけでは語れない。モグには、いろんな存在が混ざり合っているような感じがある。
 生きている人間は時間を自由に行き来することは出来ないが、主に声だけの存在であるモグは、彼ら家族の歴史を縦横無尽に駆け巡ることが出来るようだ。モグはその歴史を、ユウヒの耳を通して語る。ユウヒにのみ聞こえる声で、イチャモンをつけたり、わがままを言ったりする。人間にしっぽがないのはなぜかとか、遠心力とは何かとか面白い講釈を垂れたり、偉そうに人生訓を語ったりもする。
 私は物語の中に入ってモグの声を聴きながら、モグは人間の感じられる自然そのものではないか、という気がしてくる。

 映像制作集団・空族の仲間だった富田克也さんによると、井川さんが絵本、そして児童文学に向かったのには、ユーリー・ノルシュテインの影響が大きかったらしい。あんなふうに時間をかけて緻密な作品を編み上げてゆくような力は彼にはなかったという話は前回、書いたが、しかし憧れがあった。
 たとえば「霧の中のハリネズミ」(ノルシュテインのアニメーション作品)を思い出すと、あのような自然への驚異が、井川拓という人の中にはあったのではないか。
 富田さんは「井川くんは自然を理屈ではなく、感知し始めていたんじゃないか」と話していた。そこにはおそらく永遠とか、あるいは死というものを見ていた。そんな話をしていると、彼が死をどう感じて、どうやってそこへ入っていったのかということに少し近づけるかもしれないと思えてくる。

 物語の中で永遠とか死について論じているわけではもちろんなくて、子供たちと、かつて子供だった大人たちが、不器用そうに、でも思う存分泣いたり、笑ったり、怒ったり、楽しんで生きているエピソードが満載だ。その物語を読みながら、私も自分の中に生き続けている〈子供〉の存在を、感じ取ることが出来る。

 富田さんによると井川拓という人はいつも苦しそうで、大変な人だったようだ。私たちがいまいる、この社会を眺めてみると、彼が感知していたかもしれない〈自然〉とは真逆の世界ではないか。人間というのは、奇妙な生き物なんだなあと思う。彼ほど真っ正面から引き受けてはいないとしても、誰しもがその大変さを多少は抱えて生きている。
 自分が死んでも、いつ死にたくなってもおかしくないと思っていたのだ。11年前、井川さんが亡くなった時、ついに身近に犠牲者が出てしまった、と思った。彼は『アフリカ』最新号(当時)に書いている人でもあった。しかし彼の死の事情を知れば知るほど、私はわからないことの大海へぽーんと放り出されるような気がした。
 こうすれば生きられる、こうすれば死ぬ、ということが簡単にわかるほど、人間は単純じゃない。
 彼は私にとって大きな死者となった。
 私が考えたり、書いたりするうえでの新たな原点となった。
 井川拓が私に託してくれた問いは、永遠に答えの出ないものかもしれない。だとしたら、永遠に考え続けることができると思う。
 今回、『モグとユウヒの冒険』をつくるにあたり、これまで知らなかった彼の姿も見えてきた。でも私の「わからない」はそんなことで解決するわけはなく、ますます深い霧の中へ誘われている。

「ユウヒ、夢のなかで目を覚ますけん」
 モグが登場するときの定番のセリフだ。その声を聴くと、何だか妙に嬉しい。

 どんな人の中にも、きっとモグはいる。夢のなかで目を覚まして、話し合うことのできるような存在が。