『アフリカ』を続けて(13)

下窪俊哉

 人によっては、自分の書いた原稿を本にしたいとは思っても、他人の書いた原稿にこだわって本にしたいと考えることはないという。個人的な雑誌をつくるのにも似たようなことが言えそうで、わざわざ何人もに声をかけて、一緒につくろうと自分が考えるのはなぜだろう。

 エッセイとか小説とか(私はあまり書かないが、詩とか)、いわゆる文芸作品のようなものを書き始めてから、数えてみればもう24年たつ。自分の作品リストを眺めてみると、多くを自家製の本や雑誌として発表している。それも全て、他所に持ち込んで断られたから自分で出そうというのではなくて、いわば自給自足である。
 人知れず、書き続けてきた。なんて言えたらカッコいいのかもしれないけれど、身近な読者には常に恵まれていたし、恵まれている。24年間、ずっと並走してくれている1人の読者がいるというわけではなくて、その時々で、ふさわしい読者が現れて、道を示してくれる。
 はじめの頃は学生時代で、書いたら、持ってゆき読んでもらっている友人がいた。音楽サークルでの活動を共にしていた仲間だった。ある日、いつものように書き上げた短い原稿を持ってゆくと、すぐに読んでくれて、なぜか文楽の比喩で話をしてくれたのだが、数年後、ひとり暮らしをしていた私の部屋をふらっと訪ねてきて「文楽に応募してきた」と言った。彼はその後、文楽の太夫となり活躍している。片岡義男の本を読みあさるようになって影響を受けたのも、彼に薦められたからだった。
 好きになった女性に読んでもらう、というのはよくあることかもしれないが、もちろん読んでもらった。ある意味、若い頃の原稿は殆どが恋文のようなものだったかもしれない。フィクションになっていたり、街や川や海や山の風景が書かれていたりして、じつに変わったラヴ・レターですけれど。
 そういう読者は、目の前に来た原稿を評価しようとはしない。面白かったとか、よくわからないところがあったとか。それすら言わず、読んだよ、というだけの場合もある。
 自分にとって重要なのは、出来・不出来よりも、また未完成の原稿であっても、そこに何か力を感じてもらえるか、ということだった。大切に扱ってもらえるか、と言えばよいだろうか。そこに何かしらの力を感じられなければ、大切にしようもないだろうから。

 そんなふうに私の場合は、出版業界への憧れとか、作家になりたいとか、そういう動機はなくて、身近にいる大切な人に届けるものとして書き始めた。それが原点だった。そういった営みの先に、たまたま周囲にいた文学者たちからの評価とか、小川国夫さん(先生)との付き合いといったものにも拡がっていったのだった。
 そうなったのには幸運もあったが、それよりも、雑誌をつくる人たちの中に入ってゆき、発表したからだ。どんなに簡素なものでも、本をつくるというのはいいなあ、と思った。
 親しい友人や恋人には原稿を読んでもらえばよいが、本というかたちにすれば、読者との出合いは一気に拡がる。
 1990年代の終わり頃の話である。私はまだインターネットの世界に触れていなかったし、携帯電話すら持っていなかった(今は昔の話になるが、外で電話を受けるのに抵抗があった)。その後、まずは携帯電話を持たなければならなくなり、ノート・パソコンを買ってインターネットの海に漕ぎ出してから、書くことも、本をつくることも変化したようだった(この話はいつかじっくり書きたい)。
 だからその前の時代に、短い期間でも書いて、本をつくる人たちの中にいられたことも私にとって幸運の一部だったかもしれない。

 その頃から読者が、とても大切な存在になった。書く人にとって読者が大切、そんなの当たり前じゃないかと思われるかもしれないが、まだ「これが自分の作品です」と言えるようなものを書く前の書き手にとって、読者の存在をありありと感じられたというのは当然のことではないような気がする。読者というのは自分にとって、身近に感じられる存在だった。読者は、客ではなかった。

 ところで数年前、神奈川近代文学館で花田清輝展を観た。
 そこで展示されていた原稿の中に「古沼抄」というエッセイがあって、その時に初めて読んだのだが、連歌について書かれたものだ。展示されていたのは一部だったので、すぐに図書館で探し出してきて、全文を読んでみた(1973年に「東京新聞」で2回にわたって書かれたものらしい)。
 その時、自分はこんなふうなことを書いている。

 永禄5年(1562年)の3月、三好長慶が連歌の会をひらいていて、誰かが「すすきにまじる芦の一むら」とよんで、一同がつけなやんでいたら長慶が「古沼の浅きかたより野となりて」とつけた、という話を受けて、「かれの生きていた転形期の様相を、はっきりと見きわめていたことを示した」「思うに、時代というものは、そんなふうに徐々に変わって行くものではあるまいか」と書いたあと、芭蕉の「古池や〜」よりこちらの方がスケールが大きいような気がする、それにはこれが連歌の一部であるというのが大きくて、と「共同制作」への考察へとうつってゆく。

 どうして現代の文学は、制作をひとりでやろうとするのか?

 ひとりでやることには限界がある。いや、ひとりでやる文学はちっちぇえ。と、言いたい様子でもあり、ああでもない、こうでもない、とことばを尽くしてくれている。(2019年2月18日のnote「古沼と共同制作」より)

 自分にとってある種の読者は共同制作者なのではないだろうか。雑誌をやると、そこにかかわる人は皆、読者=共同制作者になる。数人でも集まれば、1人の意思を超えた「場」がうまれる。そこで行われるコミュニケーションには共鳴もあれば、反発もあるだろう。しかし私が本当に面白いと思うのは、何か狙いからは微妙にズレたものが現れてくることだ。そうしたズレを、私はたいへんありがたく受け取り、より深く感じられるようになりたい。

 先日、ある方から「『アフリカ』は手に取って、ひらいて読んでみないと何が出てくるか本当に予想できない」と言われて、ははあ、そうなのか、と妙に感心してしまった。予期せぬものを、『アフリカ』は待っているのかもしれない。そんなふうに言うと、ミステリアスな雑誌なんですね? どうかなあ。