『アフリカ』を始めて7年ほどたった頃、ちょうど18冊目を出した後に、初めてトーク・イベントを開催した。イベントというより、語り合いの会と呼んだ方がイメージが湧きやすいかもしれない。vol.18(2013年1月号)の編集後記によると、「どうしてこんなことをやってしまったんだろう、ということは自分でも気になるが、誰かと語り合いながら考えてみたい」と思った。
それまで1年弱の間、『アフリカ』は隔月刊行という無謀な試みを行なっていた。生業にならないどころかお金の出てゆく方が多くなることすらある『アフリカ』なので、隔月で原稿を集めて、例の”セッション”をやり、編集・デザインして印刷・製本に出して売るというのはよほど暇がないとできない。いや、たとえ暇だったとしてもいちおう(暮らしのための)仕事はしていたわけだし、狂気の沙汰だ。
どうしてそんなことをする気になったのかというと、中村広子さんの「ゴゥワの実る庭」という連載があったからだ。これはあまり間を空けずに、書き続けてもらう方がよいと私は思った。お互いに、それができるだけの余裕があったということかもしれない。
中村さんとは2009年に、植島啓司さんの講演会の打ち上げの席で知り合った。その少し前に中村さんがインドのある町を歩いていたら、前から植島さんがやって来たのだそうだ。赤い表紙に暗い木が浮かんでいる表紙の『アフリカ』vol.5を植島さんから手渡された中村さんは、しばらく眺めて、「『アフリカ』にチベットの話を書いてもいいですか?」と言った。
「ゴゥワの実る庭」はインドを旅している「私」が、デリーからバラナシを経てガヤに向かい、デリーに戻るまでの濃縮された数日間の記録だ。ドタバタと進む旅の喧騒の裏で、偶然の連なりの中に人生は間違いなく続いてゆくと静かに感じられる、内省的なというより祈りの一種のような作品で、私は毎回、楽しみにその原稿を待っていた。
その連載が終わったのが、vol.17(2012年11月号)だ。隔月で出す原動力は、そこでひとつ外れた。さあこれからどうする? という気持ちが自分の中にあったのかもしれない。その号の編集後記では「ゴゥワの実る庭」を振り返った後、こう書いている。
この雑誌を言い表す言葉を思い描いていたら、先日、「日常を旅する雑誌」というキャッチフレーズが、ふっと浮かんできた。
私たちの日常を捉え直したエッセイ、小説、漫画や写真だけでなく、インドを旅しつづけている日本人ですら、どこかで日常のなかに(意識して)とどまっていて、自分が日常の外にいることに対して残念そうな顔すら見せる。
書き写しながら思った。もしかしたら「日常」を「旅」するというのは、「ゴゥワの実る庭」を編集しながら思いついた表現ではなかったか。
とはいえ、それはきっかけのひとつだろう。小説を書く人たちが集まった、いわゆる同人雑誌(というより個人雑誌)として始まった『アフリカ』が自然と変化してきて、これは一体何なんだ? と思っていた編集人の観察が「日常を旅する雑誌」というイメージというか、方向性というか、雑誌を続けてゆく上での動力のようなものを生み出したということかもしれない。
そんな話は、書くより、語り合ってみたいと思ったのだろう。その時、淘山竜子さんが思い浮かんだ(淘山さんはその後、何度か筆名を変えるが、ここでは当時の名前で書きます)。
淘山さんとは、その少し前に『アフリカ』を買いたいというメールを貰ったのをきっかけに交流が始まり、『孤帆』という雑誌をやっているという話も聞いて、送ってもらって少し読んでいた。『アフリカ』を知ったのは、大阪の天神橋筋にあるbookshelf Bar「いんたあばる」だったという。そこは私が大阪在住の頃によく飲んでいた場所で、本棚に表紙を出して置かれている例の、赤い表紙の『アフリカ』が目についたのだそうだ。淘山さんをそこに案内したのは北村順子さんといって、『VIKING』に参加していたこともあったんじゃないかな。私は(たぶん)会ったことはないけれど、『ムーンドロップ』という雑誌に名前を連ねたことがあった。『アフリカ』を見た北村さんは「あ、下窪さんの雑誌だ」というようなことを言ったらしいので、不思議な縁だ。
トーク・イベントのようなことをしたいと考え、淘山さんに連絡して、一度会って話した。その頃、『アフリカ』を置いてもらっていた横浜の中島古書店にも顔を出して、そこを会場として一度やってみませんか、という話になった。
題して、「“いま、プライベート・プレスをつくる”ということ」。
せっかくなので編集人だけでなく、そこに書いている人にも来てほしかったが、『アフリカ』も『孤帆』も書き手の多くが離れた場所に住んでいるので、難しそうだ。では、前もってコメントを貰おう、という話になった。
せっかくお金を出して参加してくださる人たちには、ささやかなお土産を渡したい。事前に預かったコメントと、編集人がその日のために書いたエッセイをまとめて(『アフリカ』と『孤帆』それぞれ)小冊子にして、準備した。久しぶりに出してきて読んでみたのだけれど、忘れていることもたくさんあって、面白い。なのでこの先は、それを見ながら書こう。
各コメントにはタイトルがついていて(私がつけたのかもしれない)、それを見てゆくだけで何というか、対照的だ。
『孤帆』の方は、「より濃密な、原液のような短編を」「同人雑誌〜文学とともに生きるということ」「淘山さんの孤独な帆船」「綱を引け、帆を張れ」。
『アフリカ』の方は、「二〇一二年七月号の宣伝文」「一度だけのゲストのつもりで」「発見を感じること」「等身大の生身の人間が」「自然な流れ」「下心」である。
そこで語られている『孤帆』に、私はおそらく自分のルーツを見ていたはずだ。一方の『アフリカ』はどうか。しょうがないよね、という感じだろうか。
淘山さんには「メディアの話はあまりできないかも」と言われた記憶があるのだが、その時に書いてもらったエッセイ「出版をしたいのか文学をしたいのか」を読むと、具体的にどうやってつくり始めたかという話と、その時代背景が書かれている。1990年代の後半に「パピレス」「青空文庫」が出てきたこと、『本とコンピュータ』のシンポジウムに行った話、当時のDTPソフトのことなども。
印象深いのは、インターネット上に発表されている「アマチュア作家」の作品を読み漁っても、「文芸批評にたえうるような作品は見つからなかった」と書いているところだ。それに、ウェブでは「繋がれそうで繋がれない」のだと言っている。10年後の今、どんなふうに感じられるだろうか。