製本かい摘みましては(175)

四釜裕子

いよいよ裏紙がなくなってきた――。年に一度の製本講座の準備をするのに、今年いちばんびっくりしたこと。ノリやボンドを塗るときに、机だとか塗るべきではないところにベタベタつかぬように下にひく、いわゆる「ノリひき紙」のことだ。校内のリサイクルボックスをちょっとのぞけばいくらでも拾えたのに、去年はコピー用紙類のボックスから拾えなくて隣の雑誌・雑紙箱から拾ったし、今年はついに何も拾えず、わざわざいらない雑誌を探してもらってそれを破って用意することになってしまった。学校が夏休みに入っていたせいもあるだろう。でも印刷室とお掃除の人に聞いたら、今年は特にないという。ペーパーレス! SDGs! いいことじゃないですか。

津村記久子さんは、生活の一割くらいはメモにとっているそうだ。高いノートより安いノートの方がいろいろ書けるし、いちばんいいのは勤めていた会社の裏紙だったとエッセイに書いている(朝日新聞「となりの乗客」2022.8.17)。今はB6縦サイズのノートを使っているがリング式ではなくて無線綴じか糸綴じのものを見つけるのに難儀しているそうで、〈どうやら大量に持っているB5サイズのノートを「切り出す」のがいちばん良さげだが、罪悪感が強くて踏み切れない〉とあった。その罪悪感、わかるわかると笑いつつ、「切り出す」ことを思いつくほど、津村さんにはカッターに慣れているのだろうと思った。だって結構、難しいですよ。それなりに厚みがある紙束から直方体を切り出すのって。

製本講座でもう一つ、今年ならではのトピックがある。コラージュの素材にレシートが登場したことだ。数日かけて綴じ方をいくつも体験する講座なので、本文はほぼ白い紙を使う。それでときおり、自分がその冊子の作者・著者となって「本」を完成させてみようという時間を挿入している。ページを埋めるのに手段は問わない。文字でも絵でもコラージュでもいい、とする。実際コラージュする人は他に比べて少ないが、その素材は年々変わる。いわゆる雑誌のグラビアやポスターやカレンダーやチラシや包装紙のような美しい印刷物はみるみる減って、携帯で撮った写真のプリントが増え続けている。そして今年初めて感熱紙のレシートが仲間入りしたというわけだ。レシートを用いた三人のうちの一人は、「手元にあるもので使えそうな紙はこれしかなかった」と言った。とはいえ新聞の切り抜きもうまく使っていたし、新聞紙を束ねるようなビニール紐で四つ目綴じをアレンジしてあったりして、読んでも見てもユニークな「本」に仕上がっていた。

とにかくペーパーレス化はいいことだと思っている。不可逆性の着々は大歓迎。自分自身の無駄にも悩んでいた。例えばこうしてちょっと何かを書くにしても、いちいちプリントしないと通して読めないとか直しを入れられないとか、小見出しを立てられないとか要約できないとかいうのにうんざりしてきた。いちいちプリントする。いちいち直す。なんでだろう。どうしてできない? 単に習慣ということもあるだろうと思いつつ、改めるきっかけもないままできてしまった。やっぱり私、紙で読まないとダメなの。とか口から出そうになるのを必死でこらえた。でもこれはコロナのおかげと言っていい。おととしそうする必要にせまられて、これを機会にできるだけやめてみようと思った。始めはつらかった。無理だと思った。毎日夕方にはストレスにまみれた。だけどいつからかできるようになった。気づいたらストレスが消えていた。新しい何かに慣れる生きものとしての余力がまだあるんだと思ってうれしくなった。

紙っぺらや印刷物が周りから激減しているのは正直とても寂しい。だけどどう考えても、これまであふれすぎていた。コピー用紙なんてもう最初っからリサイクル要員な顔をさせられてきたものね。どの一枚ずつもまっさらに生まれてきたにもかかわらず、物理的にも時間的にもわれわれはその一枚ずつをあまりにも平気で一瞬でくたし続けてきた。無礼な話だ。見よう、紙を、まじまじと。さっきもらったレシートもね。