昨年の夏、八巻美恵さんから「気が向いたら、水牛にも書いてくださいな。」と声をかけてもらって、何を書こうかな? と考えてみた時、その前年の大晦日に八巻さんがブログに書かれていた「「水牛」を続けて」が思い出された。読み返してみて、面白い、大きな共鳴を感じた。それで私はそのアンサー・ソングを書くことにして、タイトルは「『アフリカ』を続けて」にしよう、と決めた。
先月、horo booksから発売された八巻さんの本『水牛のように』に、その文章も収録されている(「「水牛」をつづけて」になっている)。あらためて読んでみると、『水牛』は雑誌だと思っているという話の流れで、
いろんな人が水牛という場にいて、いろんなことが書いてある。それが大事なのだ。
と書かれているのに目が留まった。この『水牛』という雑誌に並んでいる文章は、ゆるやかなつながりを持っていると感じる。「つながり」と言っていいのかどうかもわからないようなゆるいつながりだとしても。
前回の話の続きで、小野二郎さんのある本をようやく押し入れから探し出して、ひらいてみたのだが、「プライベート・プレス」ということばを見つけることはできなかった。もしかしたら図書館で借りて読んだ別の本に、出てきていたのかもしれない。なのでその文章を確認はできていないが、ウィリアム・モリスにかんする話を読んで知ったというのに間違いはないだろう。
プライベート・プレス、注文を受けてつくるのではなく、自ら出版したい本を、自前の小さな印刷工房で、紙や印刷、製本にこだわりぬいてつくられた少部数の本というふうだろうか。
アフリカキカク(雑誌『アフリカ』を出している個人レーベルのようなもの)でつくっている本は、旧知の印刷・製本屋さんに任せっきりで、そこに大したこだわりはない。モリスの考えたこととは真逆のような気もする。ただ、なるだけお金をかけないでつくろうというこだわりはある。注文を受けてつくるのではないし、自分たちがつくりたい本を自分たちで少なくつくる。
2013年1月に初めてトーク・イベントをやった時にはそんなふうなことを考えて、そのイベントを「“いま、プライベート・プレスをつくる”ということ」と名づけた。そうしたら、プライベート・プレス! 『アフリカ』にぴったりですね? なんて言う人もあらわれる。
リトルプレスでもミニコミでもZINEでも個人誌でも何でもよいといえばよいのだが、プライベート・プレスということばには、何かふわっとした広がりが感じられるような気がした。それに、私は少部数であることにも、コミュニティの小ささにも、手づくりであることにもたいしたこだわりがあるわけではないが、個人的な場(メディア)をつくることにはこだわりを持っているようだ。
その頃、『アフリカ』の装幀(表紙のデザイン)をやっている守安涼くんがこんなことを書いている。
この雑誌は今年になってからひと皮むけたというか、確かなレベルアップを感じさせる手触りがある。それは雑誌全体の一体感であったり、各コンテンツの洗練であったりする。雑誌のいわゆる「雑」の部分が澄んできた、ともいえる。小説然とした作品をめざすのではなく、書き手の書きたいものがストレートに出た散文が多く並ぶようになったせいもあるだろう。編集人はつねに新たな企みを抱いている。
いまから10年前、2012年7月号(vol.15)の宣伝文である。
つねに新たな企みを抱いている! 片岡義男さんの書いていた「さまざまな興味深い試みのショーケース」(前回を参照)のようにしたいという理想があるから。
続けたいというより、また新しいことをしたいといつも考えている。
そのわりにはたいして代わり映えしないように見えるというのも『アフリカ』の狙いである。久しぶりに雑誌を手に取った人が、ああ、変わってないな、と感じるだろうニュアンスは変えたくない。くり返しのパターンを好んでもいる。しかし企みはいつも新しい。
そういった私の企みはその後、雑誌という枠に収まるものではなくなったようだった。毎月、いろんな本を読んで集まって語り合う「よむ会」を何年かやり、その後、読んだり書いたりするのが苦手だという若い人たちとの「ことばのワークショップ」、美術アトリエに集う人たちとの「インタビュー・ゲーム」「自作解説のワークショップ」「夢をめぐるワークショップ」などを経て、「オトナのための文章教室」(後の「道草の家の文章教室」)につながっていった。文章教室といっても何か書く技術を教わる場ではなくて、お互いが書き、書き続けるための試みとしてのワークショップだった。
私には、『アフリカ』もワークショップであると言い切ってしまいたい気持ちがある。
プライベート・プレスというと個人の発信というようなことを思い浮かべる、という話を受けて語り合ったこともある。メディアの役割は発信の他にもあり、たとえば作品を集めること、アーカイブすることもそうだろうし、何かをつくるための場という側面もある。
『アフリカ』は、書くための場である。いろんな人が出たり、入ったりして書いて、人によっては絵を描いたりもして、そこに残しておく。その作品を後々どうするかは、その人次第だが、とりあえず『アフリカ』という場に置いておける。今年の春、『モグとユウヒの冒険』という本をつくった時には、故人となった著者を紹介するのに、『アフリカ』に残されていた生前の文章が大きな助けになった。家族や友人・知人の回想だけではなく、本人の書き残したことばが手元にあるということをその時、頼もしく思った。
『アフリカ』という場をひらくと、いろんな人がいて、いろんなことが書いてある。そのひとつひとつには、ゆるやかなつながりが感じられるだろう。