先週、庭の虫の音がぴったりと止んだ。10月は初旬に気温が急に下がる日が続き、そのときも庭はしんと静まったのだけれど、日が照るとまたコオロギやらスイッチョンやらが鳴き出して騒がしくなった。秋晴れの日は元気を盛り返す虫たちも、日に日に朝晩の気温が下がっていくにつれて鳴き方は弱々しくたどたどしくなっていき、天気とのせめぎあいが半月ほど続いたあと、ついに潰えてしまった。草むらには、彼らの死骸がころがっているんだろうか。カナヘビやクモやアリたちの餌食になっているのかもしれない。
気がついてみれば、油断して半袖で出ようものならすぐに2、3か所は刺された蚊はどこにもいない。2週間ほど前の朝には、夏の間、通り道にしていたのかよく飛んできたオレンジ色のツマグロヒョウモン蝶が、破れた左側の羽根も痛々しくプランターにしがみついていた。息も絶え絶えに見えた。日が高くなるとどこかに飛び立ったのかいなくなっていたから、気温の下がる朝は動けずにじっとしていたのかもしれない。昆虫が動き回るのは20度くらいというから。10月は日に日に少しずつ命がけずりとられていく感じ。それがじぶんにも迫ってくるような感覚がある。
この夏はコロナ感染という事態になり、体も気持ちも凹んだ。大した症状ではなかったのに、少し動くとすぐに息が切れ、地下鉄の階段を上がっても足が重い。だるい体で久しぶりに家の裏に回ると、勢力を増すドクダミに抗うようにミョウガが腰の高さくらいに生い茂っていた。いつの間にこんなに増えたんだろ。もしや、とミョウガの根元をさぐったら、あるある、大きな実というか花芽がころんころんとあっちにもこっちにも。だるさを忘れて汗をかきかき夢中で採ったら、すぐにザルいっぱいになった。採るのに邪魔なドクダミを抜くと、あの独特の強烈な匂いが鼻孔を直撃してくる。この臭い匂い、嫌いではない。この匂いと汗のせいか、そして思いもかけない50個もの収穫が効いたのか、流しで洗うときには、いつのまにかコロナを脱したような気分になっていた。
降っては高温、2日もするとまた雨で高温というミョウガに最適の天気が9月いっぱい続き、大豊作は止まなかった。冷奴にのせ、味噌汁の具にし、ぬか漬けにし、お煮しめにまで入れて食べつくし、それでも食べきれない分は友だちや知り合いに分けた。300個ぐらいは採っただろうか。何にもせずにどんどん育ってくるものを採る、これなら私にもできる小さな農業だし、収穫には何といっても楽しさがついてまわる。これまでもミョウガは採っていたのだけれど、ひと夏にせいぜい1、2回程度。定期的に摘むと、花芽がまたすぐ育ってくるのがわかった。最後のミョウガを収穫したのは10月11日。秋ミョウガとよぶらしい。ちょうど虫の音が静まっていく時期に、ミョウガも勢いを失っていく。いまはもう黄色にしおれ、倒れかかっている。季節の区切り。
ちょうどミョウガの収穫時に咲き出すのが秋明菊。やっぱりここは漢字で書きたい。お盆が過ぎ、涼やかな風が吹き始める頃になると、いつのまにかするすると伸びた背の高い茎に白い花をつける。ゆらゆら揺れる白い花は秋の風情だ。そこからずっとふた月も花をつけ、つい先週、最後の一輪が散った。その間に金木犀が一瞬といえるような速さで、開き、満開になり、1週間ほどで細かいオレンジ色の花びらを落としてしまう。どうしてこんなに花期の長さが違うのだろうか。日本の金木犀はほとんど雄株というから、そもそも受粉の必要がないからなのか。
雑草の緑色もみるみる色が薄くなり、透明感が増していく。その中で申し訳なさそうに咲くイヌタデの花は、しゃがんで声をかけたくなるようなかわいらしさ。紅色が映える。いまはそのイヌタデも枯れつつある。
植物は力を失っていく季節だけれど、樹木にはずっしりとした実りがある。木の実。
何といっても私にとっての王様はトチの実だ。クリよりも大きいようなつやつやした実が山道や公園や駐車場のわきに落ちているのを見ると、拾わずにはいられない。落下してなお硬い果皮に包まれたままのもある。上着のポケットに3つ4つを入れて持ち帰り、テーブルに並べる。また出かけて見つけたときはポケットにねじ込み持ち帰る。気がつくとザルにけっこうな数がたまっている。つるんとまるいのがあれば、ボコボコいびつなのがあり、ピンポン玉くらいのでかいのもあれば、いじけたように小さいのもある。まち歩きのガイドをする機会がよくあって、歩いている途中にトチの並木があるときはすぐに地面を探し、ほらトチの実だよと参加者に教えてあげるのだけれど、興味を示すのは10人のうち2人くらいだ。
どんぐりの中で、マテバシイはそのまま食べられる。先日、近くの寺で拾ったカヤの実をフライパンで煎って食べてみたら、アーモンドのようでけっこうおいしかった。でも、マテバシイを食べ過ぎた友人はどんぐりアレルギーで病院に行く事態になったから、要注意ではあるのだろうけど。
寺田寅彦の作品に「どんぐり」という随筆がある。若くして亡くなった最初の妻の闘病と思い出を記しているのだけれど、おしまいのところで、いっしょに出かけた先でいつまでもどんぐり拾いをやめない妻のことが描かれる。「いったいそんなに拾って、どうしようというんだ」と問うと、笑いながら「だって拾うのがおもしろいじゃありませんか」と答える妻。その記憶は数年後、6歳になる忘れ形見の坊やのどんぐり拾いに再現される。植物園で、幼い息子はいつまでもどんぐり拾いをやめようとせず、ハンカチの中に増えていくどんぐりを見ては無邪気にうれしそうに笑うのだ。こんなことまで遺伝するのかと思いつつ、母の早世までは似て欲しくないという父としての本音で文章は締めくくられている。
ミョウガにしてもトチの実にしても、拾う行為に心踊る私の感覚は誰から私にきたんだろう。今日もカゴの中のトチの実をながめ、どことなく安心感を得ていることを考えると、縄文人としての何かが私の中に生きているのかもしれないと思ったりする。
ところで、この稿を書いている10月30日。夕方近くに庭を眺めていたら、コロコロとコオロギが鳴いていた。弱々しくはない、くっきりとしたよく通る音で。どこの世界にもひときわしぶといのはいるんだ。