『アフリカ』を続けて(19)

下窪俊哉

 毎月、『アフリカ』をめぐる回想録をつけているようでいて、これからのことを考えている。回想録といえば私は、どうやら最近のことより昔のことの方が書きやすいようである。前回はこれまでの『アフリカ』を5つの時期にわけて、「黎明期」「展開期」「隔月期」「マッタリ期」と順番にざっとふり返って、「転換期」に入るところで終わっていた。「マッタリ期」のことはこれまであまり話したこともなくて、ようやく自分の中で整理がついてきたような気がした。そのためにワークショップのことを書く必要があった。

『アフリカ』を5つの期間にわけられるということは、そこには5つの雑誌があるということかもしれない。でもそれを『アフリカ』というひとつの名前で呼べるのは、つくっている私には、つながって感じられているからだ。と書いて、いや、待てよ、と考える。それは元々つながっているのではなく、私がそれをつなげてきた、つなげようとしてきたということではないか?

 転換期(2019年〜2022年)、つまりそれまでとは違う、別の方向に『アフリカ』が動き出した。

 思い返してみると、「マッタリ期」の終わり頃には、ふわふわ旅をしているようだった『アフリカ』を地面に下ろして、確固たる活動拠点を持ち、やってゆこうとする試行錯誤があった。ワークショップをイベントにして集客したのには、そういう狙いが(後から考えたら)あったかもしれない。
 しかしそこに私は妙な不自由を感じていたようである。不自由の生み出す自由もあるので、必ずしもそれが悪いことだとは思わなかったが、やがて立ち止まる理由になった。そこでこの連載の初回に置いておいた問いが戻ってくる。

 それにしてもどうしてこんなことをしているんだろう?

 あらためて、それまでのことをつなげて考えてみる必要が出てきた。原点に立ち返って、再び自分(という編集人)のリハビリを始めたという側面もあるかもしれない。ただ以前と違い、これまでやってきた雑誌を止めずに、続けながら再スタートしたので十数年の蓄積がある。そのアーカイブを生かした本を何冊か、つくってみることにした。
「下窪さんの作品はどうでもいいんだ」と言われたときの声は、耳にまだ生々しく残っていた。「マッタリ期」を通じて、自分の作品はどうでもいいんだ、と私自身が感じ始めていた可能性はある。彼は私であり、私は彼だったかもしれない。そこで、まずは自分の作品集をつくることから始めた。それは『音を聴くひと』という本になったのだが、その本は私にとって、はじまりという感じもあり、おわりという感じもある。

『アフリカ』は再び、ふわふわと旅を始めた。確固たる活動拠点はなく、どこにいるのか、奥付によると現在は横浜市道草区道草本町に発行所があるらしいが、もちろんそこに手紙を出すことはできない。いや、それは半分嘘で、メールは届く。ようするに、こういうことかもしれない。2019年、『アフリカ』はいよいよ覚悟を決めて、ウェブの大海原に漕ぎ出して行ったのだ、と。
 とはいえ『アフリカ』は紙の雑誌なので、それ自体がウェブに漂っているわけではない。ウェブで盛大に宣伝をしているのかと言えば、そんな様子もない。
 いつも、さて、どうしようかな? と思っているのだった。すごく困っているわけではないが、ボンヤリ困っている。それができるのは私自身が、誰に頼まれたわけでもない原稿をずっと書き続けているからなんだろう。書くことだけは、休んでいる時にも続けている。水上を走る舟の上で横になって休んでいるというようなことが、私の執筆にはよくあるような気がする。

 さて、2022年は『アフリカ』の発行ペースを再び落として、数年続けてきた文章教室も休み、これからのワークショップをどうしてゆこう? とボンヤリ考えていた。秋には、休んでいる文章教室に声をかけてくれていた人たちと”作戦会議”の時間も持った。
 書く人にとって重要なことは何だろう? いや、私自身が書き続けるのに何を大切にしてきたか、と考えてみた。それは仲間の存在だ、としみじみ感じられた。”教室”はもう止めて、”サークル活動”ができないか? と”作戦会議”で話してみた。
 その人たちがどうやって集ったのかというと、いまはもう大半がウェブを通じて、なのだった。みんな近くに住んでいるわけではないし、実際には会ったことのない人たちもいる。となると、ウェブ上のサークル活動、ということになる。どんなやり方があるだろう? と話し合う中に、ウェブ・マガジンを始めるっていうのは? というアイデアがぽっと浮かんだ。ウェブ・マガジンの姿をしたワークショップ? その時、ある人が言ったのだ。「それって、『水牛』をこっちでもやろうってことですね?」
 なるほど、その発想は自分にはなかった。でも、すぐに始められそうだ。『アフリカ』のやり方とは真逆で、送られてきた原稿は(何も言わず)スパッと載せる、という方針を立てた。書きっぱなしの、粗削りなものをどんどん載せて、みんなで読みたい。ガラクタの山をつくるつもりで! などと言っていたら、そこに書きたいという人のワクワクする様子が伝わってきた。
 新しくつくったウェブ・マガジンを「ウェブ版のアフリカ」と呼ぶ人もいる。そう感じられているならそれでもいいのだが、私は『アフリカ』とそれを区別して、『道草の家のWSマガジン』と名づけた(道草の家というのが何なのかということは「巻末の独り言」で触れられている)。
 ウェブ・マガジンをつくるのは初めてだったのだが、つくってみて、わかった。上から下へ流れるように並べて、読むことができる! この「水牛のように」と同じことなので毎月読んでわかっているつもりだったが、自分で編集してみて初めて、ああ、こういうことか、と感じられることもある。
 当然といえば当然のことだけれど、ページの制約を受けない。つまりページが変わることによる断絶がない。そのかわり(?)見開きというものもない。スペースの制限がないから字数を気にする必要もない。目次をつくったのでお目当ての場所に飛ぶことはできるとしても、その前後には雑誌の流れがしっかりと感じられる。
 何だか、オムニバス映画のようだな、とも思った。映画なら、エンドロールがあるといいかも、となり『アフリカ』ではお馴染みのお遊びも入れることができた。
 いまはその感触がとても新鮮で、楽しい。紙の雑誌だとこんなふうにはゆかないよねえ、と話していて、また思いついたことがある。これって、巻物だよね? いつか巻物になった雑誌をつくってみたい。そんなことを考えている時間は楽しい。