『アフリカ』を続けて(25)

下窪俊哉

 先月、急に思い立って、アフリカキカクの年譜をつくってみた。ある人に話したら、「ネンプ? 年表ですか?」と驚いたような顔をされた。
 私は年譜を読むのが好きなのである。例えば講談社文芸文庫を買うと、必ず巻末についているあれだ。
 自分のやってきたことにかんしては、若い頃には全て頭の中に入っていて、いつでも取り出すことができた。それが最近は全くそういうわけにゆかなくなり、けっこういろんなことを忘れているということがわかってきた。
 3年前に『音を聴くひと』という自分の作品集をつくった後、それを読んだ旧知の人から連絡があって、「10年ちょっと前にも下窪さんの本をつくる計画がありましたよね?」と言われて驚いた。全く覚えてないのである。指摘されても思い出せないとは、どうしたことだろう。
 最近、そんなことが徐々に増えてきたので、アフリカキカクにかんすることだけでも、まとめておいて、いつでも眺めることができるようにしよう、と考えた。「水牛」で「『アフリカ』を続けて」を書き続けるのにも役立ちそうだし、と。せっかくならウェブサイトで公開してしまおうということになった。

 2005年10月に『寄港』第4号を出して、休刊したところから始まる。『寄港』を『アフリカ』の前身とは言えないような気がするが、『寄港』を続けていたら『アフリカ』はなかったはずなので、大きな転機となる出来事だったと言っていい。
 じつは止めるのは嫌いじゃない。止めると、必ず新しい流れが生まれるからだ。何かを止めたいとか、あるいは止めたくないと考える時というのには何かありそうだと思う。
 そこから2023年3月の『アフリカ』vol.34まで、ざーっと眺めてみる。
 最初の数年は、編集人である私の失業、再就職から、ついには会社勤め自体を止める決断をして「無期限の失業者/自由人」となる流れを背景に、続かないはずだった『アフリカ』を年2冊のペースでつくり続けてしまっている。
 その後は、項目の多い年と、少ない年があるのがわかる。
『アフリカ』を隔月で出していた2012年〜13年は際立っているかもしれない。どうしてそんなことができたんだろう? いまとなってはうまく思い出せない。そのことだけをやっていたのなら、わからないでもないが(それでも大変そうだ)、そんなはずはない。幾つかの仕事を始めたばかりだったし、逆に余裕はなかったはずである。そんな中、初めてのトーク・イベントまでやってしまっている。当時はしかし、そんなに大変だという意識はなかったような気がする。
 逆に、もっともっとできるはずだと感じていた。いわゆる”ランナーズ・ハイ”というのに近い状態だったのかもしれない。
 似たようなことが、本を何冊も立て続けにつくった2021年前後にもあった。文章教室を毎週やっていた2018年にも近いことが言えそうだ。
 それらの時期を思い返してみると、いずれも(年譜には書いていないが)印象深い対人トラブルが起こっていた。いつもは上手く対処できていることも、ハイになっている時期には、できなくなるということかもしれない。あるいは、トラブルも起こるべくして起こっているのだろうから、現状に風穴を開けようと躍起になっているのかもしれない(しかしトラブルはない方が楽なので、このことは今後、頭の隅に置いておきたい)。
 一方、例えば2017年などは、アフリカキカク以外の仕事で忙しかったので、記述が極端に少ない。それでも『アフリカ』は1冊、ちゃんと出しているのである。
 そうか! と思ってざーっと確認してみると、どんな状況であれ、2006年以降『アフリカ』を1冊もつくらなかった年はないのだ。「『アフリカ』を続けて」いると言うからには、最低でも年1冊つくっているというのは驚くようなことではなさそうだが、その事実を年譜の中に置いて眺めてみると、何だか不思議な気がする。

 いろんなアイデアを思いついて実行はするのだが、殆どの人にはウケないという特徴が全体にわたって言える。ただし、信じられないくらい深く伝わっている人もいるのである。たくさんの人にウケたら、深く伝わる人も増えるのかどうか、そのへんはよくわからない。

 そんなことを続けて、もう17年、これまでやってきたことを隠さず(忘れていることはまだあるかもしれないが)ズラッと並べて見せて、私は平気なのだ。清々しい気持ちがする。そんなことは当然のように思っていたが、誰でもそうだというわけではないらしい。つまり過去の仕事、以前の作品は封印しておきたい人もいるわけだ。
 アフリカキカクには17年前のものと、いまのものを並べて同じ雑誌ですと言って見せることができるのである。何かを止めたことすら大した分断ではないと感じているところが自分にはある。ものすごく嫌な出来事があっても休み休み思い出し、あのことがあったからこそ、その後があったと考える。

『アフリカ』を始める前に書き残しておいた文章によると、『寄港』を止めよう(休もう)と思った大きな理由は、他人から要求されて無理やり働かされているような気分になってきて、嫌気がさしてしまったからだそうである。当時は会社勤めを始めたばかりで、余裕のない中、短い休日の時間をその無償労働に当てていた。その文章の中には、「参加者から対応に困る妙な苦情が来たりもした。これは地獄だと思った。」という記述もある。
 なるほど、『アフリカ』を始める時、「続ける気はない」などと言っていたのはある種の人たちへ向けたハッタリだった。これからは好き勝手にやる、何か言いたい奴はあっちへ行け、ついて来るなよ、というわけだ。自分だけでなく、みんなもっと好き勝手にやればいいのにと思うこともある。好き勝手にやると、責任が芽生えるというのか、どうなるか? というと、何があっても他人のせいにしなくなるということではないか。アフリカキカクという場で起こった全てのことを、私は受け止める。好きこのんでそうしているのである。

 私はいまのところ、『アフリカ』を止めたいとも止めたくないとも思っていない。