『アフリカ』を続けて(3)

下窪俊哉

『アフリカ』の書き手は、その時々の、編集人(私だ)の交友関係から現れてくる。「書きません?」と誘うこともあるし、頼む前に送られてくることもある。書く人は『アフリカ』という場を出たり、入ったりしている。長い間、続けて書いている人もいるにはいるが、それでも毎回、必ず書いているわけではない。
 何を書くかは、書き手に委ねている。訊かれたら、「いま一番、書きたいと思うことを書いてください」と伝えることにしている。字数制限もなし。何を書いてもいい。それで書く気になった人から送られてくる原稿に、突き動かされるようにして雑誌が立ち上がってくる。はじめに設計図があり、それに合わせてつくるというようなことはない。
 その号の特集テーマを決めたこともない。いや、少しあった。個人的にお世話になった作家の小川国夫さんが亡くなった時に、数人に声をかけて追悼文を書いて、載せたことがあった。書き手の常連である犬飼愛生さんが久しぶりに詩集を出した時には、論考を書いたり、メールでやりとりしてインタビュー記事をでっちあげたりしてまとめて載せたこともある。しかしそこには特集とは書かれておらず、よく見たら小特集のようになっているという具合だ。
 いま、書店へゆくと多くの雑誌で、特集が目立つようにつくられている様子を観察できる。リトルプレス(ミニコミ)にも、その影響は及んでいるのではないか。
 特集テーマを決めて、書いてもらう、というやり方はつくりやすいのだろうし(考えやすいという方がよいか)、買う人も特集が何かを見て選べばいいので買いやすいのだろう。わかるような気がする。でもそればかりでは、予想を外れたもの、超えたものが出てこない。『アフリカ』のような小さな雑誌で、できることは何かと考えると、その「予想を外れたもの」へ近づいて、入ってゆくことではないか。
 準備はほとんどしない。
 出たとこ勝負で、集まってきた原稿を並べて、流れを見る。
 打ち合わせたわけでもないのに、ある人の書いていることが、別のある人の書いていることへの応答のようになっていることがよくある。不思議なことだ。

 表紙にあるのは切り絵(をスキャンして配置したもの)だ。『アフリカ』を最初につくった時、向谷陽子さんから届く年賀状や暑中見舞いが切り絵になっていたのを思い出して、依頼してみたのだった。それから15年、『アフリカ』の表紙にはいつも彼女の切り絵が躍っている。
「何を切ろう?」という相談を受けることがあるが、それも基本的には「いま切りたいものを」で、切り絵も『アフリカ』に集まってくる作品のひとつなんだというふうに思っている。それでも相談されるので、最近は毎回、リクエストをいくつか出して、その中から選んでもらっている。ただし、そのリストにないものを切って送ってくる場合もある。予想していなかったものが届くと、『アフリカ』が喜んでいるような気がする。
 さて、その表紙には、切り絵と「アフリカ」の文字があり、発行年・月が書いてあるだけである。
 これではどんな雑誌なのか、実際に手に取り開くまでサッパリわからない。”アフリカの雑誌”だと思ってしまう人がいるのも仕方がない。
 そんな『アフリカ』でも、3、4冊つくるともう「次の『アフリカ』はいつですか?」なんて親しみをこめて呼んでいる人がいる。「どうして『アフリカ』なんだ」と言われていたことも、次第に過去のことになる。
 5冊目の『アフリカ』になって初めて、奥付に号数を記した。号数のない雑誌ではなくなった。しかしそれ以降も、現在に至るまで、第○号と記してあるのは奥付だけである。あまり大切なことではないんじゃないか。毎回、毎回の、その1冊があるということに比べたら。

 先日、32冊目の『アフリカ』をつくった後で、ある人たちと話をしていて、32号って、すごいですよね、と言われた。そうかな? だって、1年に2冊つくっていたら、10年で20冊、15年で30冊じゃない? でも1年に2冊つくるのだって、大変ですよ? そうかな、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 昨年、下窪俊哉(私)の作品集『音を聴くひと』をつくった時に、それまで20数年の間に書いて発表してきたエッセイや小説に加えて、『アフリカ』の編集後記を全て載せた。
 数年前、フリーマーケットに『アフリカ』を出した時に、立ち読みをしていた見知らぬ人から「この編集後記、面白いから、これだけをまとめた本があるならそれを買いたい」と言われたのが印象に残っていて、そのアイデアを本の一部として生かしたのだった。
 いつも校正を手伝ってもらっている黒砂水路さんからは、こんなことを言われた。「(編集後記を続けて読むと)力んでいるのか脱力しているのかわからない面白さがある。”続けることは変わること”というようなことを、くり返し書いてあるのが印象的だった」

 一定してはいない、常に揺れている、ということかもしれない。「つづける」ということは変わりつづけるということだなあと思う。しみじみ、そう思ってます。(第26号/2016年8月号の編集後記から)

 書いた時には、次々と起こる変化に、戸惑いがあったのかもしれない。いまでも、変わってゆくことを意識すると、自分の中から力が湧いてくるのを意識すると同時に、寂しさも感じている。『アフリカ』を取り巻く人たちも変わったし、自分も変わった。生きてゆくことは、別れと出会いの連続ではないか。いなくなった人の存在を感じながら、まだ続いている。

アフリカキカク