『アフリカ』を続けて(33)

下窪俊哉

 この連載が「『アフリカ』を休んで」あるいは「『アフリカ』を止めて」に変わる日が、いつになるのかはわからない。いまはまだ、続いている気配が濃厚にあるので、とりあえず進めてみよう。どんな未来が待っているかは、神のみぞ知る、だ。

 3月の「水牛」が更新される頃、私は広島に滞在している予定で、約20年ぶりということになるようだ。亡き向谷陽子さんの家と墓を訪ねて、翌日は守安涼くんのいる岡山へ向かう。この1ヶ月、じっくりとその準備をしていた。何の準備なのか。心を整理するため、と言えばよいか。とにかく思い残すことがないように。なので今回も、向谷さんの話を中心に書こう。

 過去のことは、意識して捨て去っている人も少なくないだろう。しかし私は自分の手元に、全て残しておきたいと思う人である。嫌なこと、悲しいこと、苦しかったことも、というより、そういうことをこそ残しておきたい。いつか、そのことが自分の人生にどう影響したか、と考えることにたいへん興味があるからだ。
 近年はかなり減ってしまったが、『アフリカ』を始めた頃にはまだ、手紙のやりとりがたくさんあった。それも全て残してある。ただし整理は苦手なので、長い年月の間に紛失してしまったものもあるかもしれないが、捨てようと思ったことはない。
 向谷さんから貰った手紙も、全て自室にあるはずだ。若い頃のものは、押し入れの奥にずっと眠っていた。数週間前に、決意してその頃の手紙の束を探して、見つけ出し、彼女の手紙だけ抜いて、まとめて保存することにした。
『アフリカ』最新号の編集後記で言及した手紙も、見つかった。2006年1月の手紙だ。そっと開いて、読んでみた。

 その時のことを、編集後記には、こう書いた。

「その時、ものすごく良いタイミングで手紙が来たのだ。あ、この人の切り絵を、これからつくる雑誌の表紙にできないか、という直感に私は打たれた。」

 たしかに自分の記憶によると、そういうことだった。しかしその手紙を読むと、すでに『アフリカ』の切り絵の話は始まっていた。実際には、切り絵を依頼する私の手紙が先にあり、その返信だった、ということになる。
 なぜその手紙の存在を覚えていたのかというと、印象深い、忘れられないひとことがあったからだ。具体的にどういうひとことだったのかということは、私たちの秘密ということにするが、私は彼女がなぜ、急にそんなことを言い出しているのか、よくわからなかった。
 おそらく、わからなかったので、覚えているのである。
 2010年の秋と同様に、どうやら彼女は断ろうとしていたようだ。自分よりふさわしい人がいるはずだから云々。いま、想像している。その時に私はおそらく、編集者になったのだ。熱心に口説いたんだろう。あなたの切り絵が必要なんだ、と。

 それも、切り絵を頼んだらノリノリで切ってきてくれた、ということになっていたのだから、やはり記憶というものはアテにならない。こうなると、『アフリカ』を当初は続ける気がなかったなんていう話も信じられなくなってくる。しかし続ける気があろうと、なかろうと、「続ける」を意識していることに変わりはない。

 2006年1月より前の手紙を探したところ、2004年8月まで遡る。その間の手紙は、いまのところ見つかっていない。ということは、やりとりが途絶えていたのだろうか。そうかもしれない。2004年の秋から私は極端に忙しくなり、2005年の年末に人生初の失業者になるまで、向谷さんに何か伝えようと思うことはなかったと考えたら、そうだろうと思える。そのまま疎遠になるのが、よくある流れだったかもしれない。

 そうなると、嫌でも当時の自分の状況が、思い出されてくる。2005年1月から京都での仕事を徐々に始めて、大阪芸術大学の研究室に残ってやっていた業務と並行してやっていた。2月には京都に転居、入った会社は勤務時間が決まっておらず、社員の多くが毎日深夜すぎまでダラダラ働かされており、「出版の仕事は普通こうだから」と言われて元々なかった出版業界への憧れが霧散した。嫌だなと思うと、自分の仕事はどんどん雑になる傾向にある。やがて幼い頃からの吃音が主張をし始めて、話すことが思うように出来なくなり、経営者からメールで「その吃音をあと2週間で治さなければ、解雇もやむを得ない」と通告されたショックから、吃音の人たちのセルフヘルプグループと初めて出合った。吃音の友達ができたのは私の人生にとって大きかったので、これは怪我の功名というものだろう。2003年に創刊した同人雑誌『寄港』も続いていたが、疲れ果てて休みたいはずの週末にやらなければならない。いろいろトラブルもあって、「編集部員」を名乗るメンバーからの連絡も負担になった。もうウンザリ! となったのは何月だったのか。一度放り出したはずだが、しかし11月には(すでに手元に来ていた原稿を寄せ集めて、もう最後というつもりで)『寄港』vol.4を出しているので、いま思えば底力があった。慢性的な体調不良にも悩まされていた。年末、会社からは今後もフリーランスとして仕事を請けないかと言われたが、私はその経営者を軽蔑するようになっていたので、後のことを考えず、思い切って断った。そこで、いったん自分はリセットされた。
 これから、どうやって生きてゆこう? となった。途方に暮れていた。そんな状況で『アフリカ』は構想された。前にも書いたように、自分のリハビリである。
 編集・制作は全て自分ひとりでやることにした。守安くんには『寄港』のデザイン・組版を全て引き受けてもらっていた。それを放り出した以上、彼を『アフリカ』に誘うことは、当初は考えていなかったようである。当時のノートを引っ張り出してきて、読んでみたら、そう書いてあった。誰もついてこないだろうし、ついてこなくていい、と思っていたかもしれない。
 まずあったのは、知人の紹介で舞い込んで来た「越境」という短編小説であり、次に『アフリカ』という誌名が(なぜか)出てきて、そこでふと、向谷さんの切り絵が思い出されたということのようだ。思いついた夜、とても興奮していたのを覚えている。我ながらナイス・アイデアじゃないか! というわけだ。
 久しぶりに手紙を書いた。その最初の返信が、あの印象的な手紙だったのかというと、そうではなく、その前にも手紙があった。同じ月の手紙で、日付は書かれていないが、年明けすぐに書かれたものだろう。”切り文字”による年賀状が同封されている。そこには例えば、こんなことが書かれてる。

「どうぞ人と交わることを恐れないでください。社会に出るのは大変で、色んな人がいます。でも恐れずに新しい出合いをたくさんして下さい。その中にきっと一生ものの出合いがあるはずです。それから夢は持ち続けてください。」

 結果的に雑誌が出せなくても、そんなことより自分のことを心配してくれるだろう親しい関係の人に声をかける必要が、当時の私にはあった。それが向谷さんであり、守安くんだったというふうに考えるとスンナリゆく。断られるかもしれないという不安を抱きつつ、手紙を書いた。

  *

 手紙といえば、思い出す本がある。2004年に2冊入手して、1冊を自分の手元に置き、もう1冊は向谷さんに贈った、ある絵本だ。タテ15cmxヨコ21cmとコンパクトなソフトカバーで、ブルーブラックに染まった表紙には白抜きで上下に「FOLON」「LE MESSAGE」とあり、中央にペン画が置かれている。調べてみたところ、ベルギー生まれのアーティスト、ジャン=ミシェル・フォロンが、タイプライターの会社から依頼されて制作したものらしい。1974年版とあるが、私は1冊2500円でその本を買っている。復刻版かな(わからない)。
 青く染まった無人の街角から男が現れて、ある建物に入ると、そこには巨大なタイプライターがある。彼はその上に乗り、飛んだり跳ねたり、踏んだり掴まったりして、踊るようにして「書く」のである。やがて手紙を書き終えると、その大きな紙を折って紙飛行機にして、外へ運び出し、思い切って飛ばす。手紙はビル街の、夜の空に浮かぶ。男はそれを見送ると、再び街を歩いてどこかへ去ってゆく。