「そろそろ赤紫蘇の種を蒔かないとね。土用の梅干しに間に合わなくなるから」
よし子さんのひと言にはっとした。2月に入ったばかりのその日は暴風警報が出て10メートル近い冷たい風が吹きすさび、集会所の前の畑には枯れた草が残り寒々しい風景が広がっている。それなのに、土用…。よし子さんは、この真冬の風景の向こうに、青々と生い茂る夏草や畑の中で紫色の葉を光らせる赤紫蘇を見ているんだろうか。おもわず、その横顔を見つめてしまう。
少しずつ太陽が高くなって明るさを増す日差しの中にいると、たしかに春が近いことを教えられるのだけれど、よし子さんはからだに繰り込まれた種蒔きという農作業に向けて、反射的に一歩踏み出す感覚になるのかもしれない。
ここは仙台市東部、大津波で被害を受けた三本塚という地区で、80数年前ここで生まれたよし子さんは、地区内に嫁ぎ暮らし続けてきた。この地区の誰もがそうだったように、子どものころから田んぼに入り苗を植え、畑に季節季節の野菜を育ててきた。そういう人たちは、いまは出荷する野菜を育てるわけではないのに、決して野菜づくりをやめない。足が不自由になっても腰が曲がっても、畑を起こして種をまく。からだに刻まれた暦にすなおに導かれるようにして、蒔く。蒔いて、待つ。
蒔けば,安堵感に満たされるんだろうな、と想像する。あとはお天道さんと土がやってくれるのだもの。そして2週間たてば、土のすきまを割って緑色の双葉がぐぅっと頭をもたげてくるのだ。カラスにやられたり、大雨に流されたりすることも起こるけれど、種は約束を守ってくれる。
それにしても半年先を見越すのだ。冬に夏のこと、春に秋のこと、夏に冬のこと…を見越して、備える。半年の猶予は忙しい生活の中に時間のゆとりをもたらし、暮らしの安心にも直結している。 “半年先に備える”とつぶやいて、ひとりのおばあさんを思い出した。山形の雪深い山間地で生涯、山菜採りを続けたキクエさんだ。生きていたら105歳、そのぐらいの年齢になるだろうか。
キクエさんは、若いころに家族とともに仙台に移住したのだが、山菜のシーズンが始まる4月末になると、待ってましたとばかりに故郷の山に帰った。そして、1カ月も滞在し、毎日腰かごを下げて、今日は向こうの山の尾根へ、明日はその向こうの沢へと、つぎつぎに芽吹く山菜に呼ばれるようにして採り歩いた。カゴいっぱいになった山菜は風呂敷に包み直し、もはやこれ以上背負えないほどの量になると、小屋に戻りゴザの上に広げる。そして、ひと休みいれるとまた起伏の激しい山に入って行く。これを1日に4、5回。そうして、十分に量が確保できたところで、その日のうちに下処理を始めるのだった。
コゴミは釜に煮立てた湯の中にドボン。引き上げて水洗いをしたあと、樽にていねいに並べて塩を振り、重しをする。ワラビは灰汁を振り熱湯をかけてアク抜きしてから塩蔵。ミズ、ゼンマイ、コゴミも塩蔵。ネマガリダケは塩蔵して瓶詰め。ゼンマイはゴザの上に並べて干し、ゆっくりと時間をかけて手でもみながら乾燥。こうして首尾よく下処理が完了したら、あとは仕込んだ樽を小屋の隅に並べおいて、塩と時間に仕事をゆだねる。そして、眠らせること半年。
11月、雪が降って通行が困難になる前に山に出向いたキクエさんは、樽を開け必要な分を取り出して仙台に持ち帰り、自宅の台所でゆっくりと塩抜きする。戻された山菜は、まるで今日山から採ってきたかのようにみずみずしい。それをていねいにビニールの袋に1種類ずつ包装して息子たちの家族へ、息子がお世話になった人へ配り、もちろんじぶんの冷蔵庫にも貯蔵しておく。一人暮らしの食卓は12月でも、さながら春のにぎわいだ。
台所仕事を私に説明しながら、キクエさんはこう話した。「山菜を戻し終えたらね、今度は春まで食べる漬物を仕込むの。白菜漬け、青菜漬け、たくあん、山形でよくつくる野菜を細かく刻んだおみ漬け。山で暮らすっていうのはね、春になったら冬支度をして、冬になったら春までの準備をすること。食べ物を切らさないように先々貯蔵しておけば安心でしょ。半年あるんだもの、あせらずゆっくり楽しんで準備できる。いまのことは忙しくてなかなか思うようにできないけどさ」
店もなければ、もちろん車もなかった時代、11月下旬から4月ごろまで雪に閉ざされる山形の豪雪地帯では、半年先を考えて備えなければ家族の命があやうかったろう。
でも、その暮らし方を仙台に移住してからも捨てることなく、山の斜面を上り下りできなくなる晩年まで続けたのはなぜだったのだろう。たしかそんな質問もした。「食べるってそういうものだと思ってやってきた」といったあと、「だって山のものはなんぼ採ってもタダだもの」とからからと笑っていたことを思い出す。
いいなあ。貨幣経済に取り込まれない食。暮らしの中に少しでもそんな部分を残そうと思ったら、からだを動かさなければいけない。そして、じっと待つことも身につけなければならない。生きることの答えがすぐは出るわけがないように、食べ物もすぐには手に入らない。種を蒔いてじっと待たなければ。