3月から4月にかけては、この連載を本にするために毎日、少しずつ推敲を進めていた。(1)から(33)までを並べて、いろいろ試してみた結果、現時点では、書いた順に載せることにしている。全ての回にタイトルをつけた。本文にはかなり手を入れた。大きく削除した部分もあるし、逆に加筆の激しいところもある。部分的に書き直した回もあった。33回分、2年9ヶ月の試行錯誤があり、その中に『アフリカ』を始めてから約18年間の軌跡が見え隠れしている。その背景には、ミニコミや同人雑誌をやってきた人たちの歴史もある。それを過去の資料として見るのではなく、実践を通してどう感じられるか、ということに迫れていればいるほどよいのだが、それは今後もっと書いてゆきたい。読み返していて不思議な気もする。自分は果たして、『アフリカ』という雑誌をめぐる物語の作者なのだろうか、登場人物のひとりにすぎないのではないか。
しかしその本をどうやって出すかという計画は、まだ立っていない。自分もいつ死ぬかはわからないのだから(と、いまはまだそういう気分が濃厚で)、この本はさっさとまとめておきたい、と思い込んでしまって、一気にやってしまった。あとは煮るなり焼くなり、どうにでもしてください、と言い出しっぺである守安涼くんに投げたところだ。
どうせならこの本もアフリカキカクから出してしまえ、という話はしかし、もう少し後でしてくれ、ということになっている。大きな再出発になる次の一手は、『アフリカ』次号でなければならないという想いがあるからだ。私の単著より雑誌の方が大事なのである。『アフリカ』に助けられて、ここまでやってきたのだから。
さて、前回からの続きで、2006年の『アフリカ』誕生の真実に迫るノンフィクションの、3回目。引き続き当時のノートや手紙を探りながら書いてみよう。
6/3(土)の早朝、『アフリカ』用に書いていた自分の小説「音のコレクション」(400字×約35枚)をいちおう書き上げた。「出来はイマイチだが、自分には収穫があった」そうである。その創作ノートの中からは、こんなメモに注目しよう。「わからない」と「わかる」は対極にあるのではなく、「わかる」の周囲に「わからないA」「わからないB」「わからないC」が存在している。どういうことだろうか。
まだ『アフリカ』の制作には入っていない。何をしているかというと、すぐに次の小説「静岡さんの街」に取り掛かったようだ。再就職活動もしてはいるが、前年のことが相当響いているらしくて、半ばひきこもり状態である。「静岡さんの街」は後に『アフリカ』で連載する「吃る街」のこと。当初は100枚くらいの予定だったようだが、実際にはその数倍の長さになり、いまのところ未完に終わっている。
その頃はまだ文芸雑誌をたまに買っていて、その月には『新潮』最新号で小川国夫「潮境」、小島信夫「「私」とは何か」、柴崎友香「その街の今は」を読んでいる。この3篇は心に残っているので、書き添えておこう。
6/15(木)の夜から翌日の朝にかけて、『アフリカ』のレイアウト作業。全ページを自分でつくるのは初めてだったが、守安くんのつくった『寄港』のフォーマットを元につくった記憶がある。ただし、下にあったノンブルと柱を上にしたり、タイトルまわりを変えたりしたので雰囲気は違うものになったはずだ。
巷ではサッカーW杯ドイツ大会が話題になっており、『アフリカ』の作業をしている途中には、中継を見ている人たちから声が上がるのがたまに聞こえたかもしれない。あるいは自分もテレビをつけて中継を見ていた。
6/24(土)は「世界小説を読む会」で、パトリック・モディアノ『暗いブティック通り』(平岡篤頼・訳)をとりあげている。その日は主宰者が不参加で、いつもの会場ではなく(と言っても、その頃の「いつもの会場」がどこだったか忘れてしまっているが)京大文学部の部屋を借りて開催。ファシリテーターは当時『VIKING』編集人だった日沖直也さんで、人文書院の編集者や京大独文科の学生、少し後に文學界新人賞をとるTさんなどが参加していたらしい。どんな話をしたかは覚えていないが、全員が初対面だった若い女性のTさんが打ち上げで泥酔して困った記憶だけ鮮明に残っている。そのTさんからは後日謝りの連絡があって、少し原稿を見せてもらったりもした。
6月末、半年ほどカナダへ留学(?)していた神原敦子さんから、京都に戻ったという連絡が来た。その同じ日だろうか、広島の向谷陽子さんから切り絵が届いている。
その時の手紙を見てみると、風邪をこじらせて、思うように作業できなかった、とある。『アフリカ』の表紙に、と考えてつくってみたのはキリンのシルエットで、「間に合いそうになかったので、イラストレーターの原画を送ることにし」たそうである。ということは、6月末を〆切にしていたのだろう。「切り絵という約束とも違うし、使えない場合は本当に使わないで全然構わないので」と弱気なことを書いてから、「あと、私の切り絵の作品も何点か同封させてもらいました。挿し絵に使ってもらってもいいし、拡大してこちらを表紙に使ってもらってもよいです。」
同封されていた切り絵は3作で、朝顔と、百合と、蝶だった。
その日のノートには、こう書いてある。「守安くんへ装幀をお願いできないか、打診中。どうだろう。断られたら、それも自分ひとりでやろう。切り絵、スバラシイ。」
打診した結果どうなったのかは、もう書くまでもない。表紙に蝶の切り絵を使おうというのも、すぐに決まったような気がする。
これも同じ日のノートだが、「『アフリカ』が山場、でもとくに大変なことはない、話をした時点で信頼しているから、その気持ちが伝わっているような気がする」とある。『寄港』や前の職場で誰も信用ならんと感じていたのとは対照的に、『アフリカ』では他人を信頼している。これがリハビリの効果だと見ることが出来そうだ。
同時期、村上千彩さんが恵文社一乗寺店の奥のギャラリーで銅版画展をやっているのを観に行っている。村上さんは前職でお世話になったフリーランスのイラストレーターで、ヴィルヘルム・ラーベの小説の翻訳本をつくる仕事では表紙に彼女の銅版画を使わせてもらった。久しぶりに会って、自分が退職した後の話などを聞いたのだろう。凍りついていた自分の心も、そうやって徐々に解けてくる。
7月最初の月曜日だろうか、垣花咲子さんがわざわざ原稿を持って訪ねてきている。〆切を過ぎていたからだろうか。その原稿は小説「メンソールじゃないけどさ」で、翌日までに読んで、返事を出している。いま書きながら思い出したのは、そのタイトルを相談されて、自分がつけたのではないか、ということだ。たしか本文中のセリフからとった。
樽井利和さんの「目に張り付くもの」にかんする記録は、ノートの中に見つけられなかった。その小説は会話が全て地の文のようになっている掌編で、奇妙な味わいがあった。
あとは短い雑記を3つ、垣花さんが書いた「ヒゲのお話」、私の「好きな本のかたち その二」(たぶんその一もあったんだろう)、守安くんの「遠い砂漠」を載せることにした。「遠い砂漠」は表紙を開いたらいきなり始まる。同人雑誌は表紙をめくったら扉ページがあるか目次がある、というのをよく見ていたので、そうではないようにしたかった。
7/24(月)、『アフリカ』2006年8月号の入稿、『寄港』に続いて堺市のニシダ印刷製本にお願いすることにした。2003年に『寄港』創刊号をつくった際、少部数の印刷と製本を(安く)引き受けてもらえるところを幾つか当たってみたが、殆どはコミケ(コミックマーケット)に出す人たちをターゲットにしていたと記憶している。ニシダ印刷製本は大阪文学学校で同人雑誌をつくっている方から紹介された。いわゆる紙版印刷という方法で、最初の頃にはプリントで入稿しており、ページの順番が変わってしまうというような大きなミスも起こったのだが、ニシダさんしかないという思い込みのようなものが当時の自分にはあった。『アフリカ』を始めた頃には、PDFデータから面付けを行うシステムに変わっており、そういったミスはなくなった。後年、社長さんと久しぶりに会った際に「よくぞ使い続けてくださいました!」と言われたのを覚えている。
この連載の(1)で書いたように、『アフリカ』の入稿直後、7/27(木)のようだが、茨木市立中央図書館の富士正晴記念館を初訪問している。入ってゆくと、『VIKING』の安光奎祐さんとバッタリ会った(仕事で来られていた)。展示されている『VIKING』創刊号を見ながら、当時は糸が買えなくて綴じていないといった説明をしてくれたのは安光さんだった。
その2日後に、神原さんと再会。その日のことは他に何も書かれていないが、四条河原町近くのフランソアで会って珈琲を飲んだ記憶がある。その時に「音のコレクション」の感想を聞いたはずなので、メールで先に送ってあったのだろうか。それとも、その記憶は少し後の会合だろうか。どんな感想を聞いたのかも覚えていないが、感触はよかった。
8/1(火)に『アフリカ』納品、三条烏丸のカフェneutronで仕事上がりの守安くんと会って出来たてホヤホヤの『アフリカ』を手渡して見てもらい、ハイネケンの生ビールを2杯ずつ飲んだ。彼がその時、「なんかおもしろいね」と言わなければ『アフリカ』は続かなかったかもしれない。翌日には「音のコレクション」を褒めてくれて、「吃音の文体」と言っていたようだが、それについてはよくわからないと書いてある。
完成した『アフリカ』は執筆者の残り3人と切り絵の向谷さんに送って、あとはまず小川(国夫)先生に送ったようだ。そうやって送ると、いつも「相変わらずやってるね」と嬉しそうにされるのだった。
それでも本づくりにかんする悪夢は見たようで、よく眠れない日が続いた。しかしもっと眠れていないだろう人を、その直後に私は見ている。
8/9(水)の早朝、吉野の櫻花壇という宿にいて風呂に入ろうとしたら、真っ赤な顔をした川村二郎さんが出てくるところだった。いつも眠れないんだと言っていた。70代後半になった川村先生と小川先生が大阪芸大を退任された送別会に、なぜか私も呼ばれて参加していた。他は教授陣で、学生上がりなのは自分ひとりだった。当時のことを思い出すと、有名・無名に関係なく年配の文学者たちからいかに自分が期待されていたか、いまとなっては思い知るばかりだ。小川、川村に加えて葉山郁生さんと私の4人は夜中の3時まで語っていたそうなので、数時間も寝ていないだろう。私が川村先生に会ったのはその時が最後になった。前夜遅くにふたりがやり合っていた記録も、ノートに残されていた。その場でメモはとらない。数日後に思い出して、書いておいたものだ。
小川「東大は砂漠だった。(大阪)芸大は違った。」
川村「東大が砂漠だったということすらわからなかった。小川さんと違ってうちは軍人で失業して、食っていくのに大学は良い求人だった。」
小川「埴谷(雄高)さんと飲んでいて、小川くん、キリスト教の真髄は何かね? って言うから、永遠の生です、って返したら、俺の真髄は死だって。」
川村「ただのカッコつけだよ、そんなの。」
小川「埴谷さんは作品を仕上げることを考えなかった。それより”考える”こと自体を重んじた。」
川村「戦後文学の作家たちのことは、自分は(評論の)仕事で持ち上げたが、殆どがくだらない。でも藤枝静男と小川国夫は別で、花田清輝もよかった。『青銅時代』の創刊号はいまでも綺麗にして持っている。「アポロンの島と十二の短篇」(正確には「八つの短篇」)は鮮烈だった。言葉が屹っていると感じた。」
真夜中にかなり酔っ払って喋っていることを考慮に入れて読んでいただきたい。「くだらない」と言っている川村二郎がその作家たちと一緒にたくさん仕事をして生きてきたことを、その場にいるメンバーはよく知っていたのだから。しかし「くだらない」と言い切ってしまう清々しさというか、生の感じに、私は熱いものを感じた。そこに当時20代の自分がいたというのは、夢の中ではなかったかと思う。『青銅時代』というのは小川国夫が1957年、30歳の頃に仲間たちと始めた同人雑誌で、6号くらいまでは小川が編集していたと聞いている(勤めがなくて他の人より時間があったからだろう)。その『青銅時代』については、いつかじっくり書きたい。
その前に、私は京都駅の新幹線口で小川先生を待ち受けて、吉野まで案内している。近鉄京都駅で特急に乗ろうとしていたら、千円札を出されて、ビールとお酒を買ってきなさい、ということになる。自分が飲みたいというより下窪くんに飲ませようということなのだろうが、私は小川先生の前で酔っぱらうわけにゆかないので幾らでも飲める(何か変でしょうか)。京都から奈良へ向かう車中で、『アフリカ』と「音のコレクション」の話をしてみた。いつも私が何か言うと百倍返してくるような小川先生だったが、その時だけは、微笑むようにして、何も言わなかった。それはずっと忘れられない時間になった。