『アフリカ』を続けて(39)

下窪俊哉

 この連載の(27)で向谷陽子さんの訃報を伝えてから、ちょうど1年がたった。そのうちに本になる予定の「『アフリカ』を続けてvol.1」の目次を見ると、その回には「ベースキャンプに届いた訃報」というタイトルをつけてある。少しふり返って読んでみると、

 そういうことの何をやっても、帰ってくる場所が『アフリカ』なのである。ベースキャンプのようだと言えばどうだろうか。うまくゆくこと、ゆかないこと、何があっても『アフリカ』に戻ってきて、さあ、また次のことをやろう、と考えることが出来る。

 と書いてある。『アフリカ』は自前のワークショップ(工房)でもあるし、旅へ出て戻ってきて、少し休んで、次の旅へ向けた準備をする場所でもあるわけだ。だからその不定期刊行の雑誌が出ていない時でも『アフリカ』は営まれていて、「続けて」いると言える。
 悲しみの中にいると、ことばが生き生きするのを感じられる。その悲しみが癒えることは、ないような気がする。しかし自分の中の、ことばの鼓動が、時の経過により変化してゆくのを感じないわけにもゆかない。
 人はどんなことがあっても「その後」を生きるんだ、と思う。死者だって、死の後を生きていると感じられるから、私たちの間に存在している。

 肝心なことに、「その後」は長く続く。続かざるを得ない。永遠に続くのかもしれない(「その後」にもいつか終わりが来るだろうか)。

(33)から(36)にわたって「2006年の『アフリカ』誕生の真実に迫るノンフィクション」を書いて、『アフリカ』は当時、「とりあえずの結論」をかたちにしたものだった、ということに私は気づいた(と書いた)。スタートではなくてゴールだったわけで、結論が出たら、もうそれまでだったのではないか。『アフリカ』は続ける気がなく始めたという話は、もしかしたら後々つくってしまった話かもしれないと思うけれど、気分的には確かにそういう感じだったのだろう。
『アフリカ』を始めた頃には、まだウェブでの発信を全くしていない。ブログを始めてみたのは少し後で、Googleを使って初めて自前のウェブサイトをつくってみたのは数年後だった。SNSの時代ではまだなかったし、現在あるような便利なウェブ・サービスは殆どなかったと言ってよい。同好会的な文芸のフリーマケットが行われていることは知っていて、手伝ったことすらあったが、自分には居心地が悪かったので『アフリカ』を始めてからは一切出ないことにした。『文學界』や『週刊読書人』、『図書新聞』などに雑誌を送って紹介してもらったのも過去のことになっていて、もう送らなかった。その結果、売る方法の前に知らせる方法が殆どなくなった。つくるだけつくって持ち歩いていたら、当時通っていた立ち飲み屋の常連客が買ってくれて(誌代としてビールを奢ってもらったりしつつ)読まれた。この話は、これまでにもくり返し書いた。
 その頃のことを思い出すと、いろんなことが始まる前でもあったし、私には「その後」が始まってもいた。
 環境や状況に応じて動いたわけではなかった。これからの時代はこんなやり方でやってゆくと良いのではないか、などと考える余裕はなかった。
『アフリカ』の場合、何はともあれ、まず『アフリカ』という場(個人的な雑誌)があった。それしかなかった。自己満足と言われたら自己満足だ。それで結構、ということだった。
 妙にさめた気分で、盛り上がるところがない。話題にはもちろんならない。こんなのが話題になっても困るとすら思っていたかもしれない。ようするに、盛り上がりたくないし、話題にもされたくない、ということなのだ。なぜ? どうしてそうなったのだろうか。疲れるから?(疲れるのは好きじゃない)
 いまとなっては、よくわかる。どうしたら続けられるだろうか、と考えていた。
 盛り上がったら、その後に必ず盛り下がらないといけなくなるし、話題になるものはいつか忘れ去られる運命にある。盛り上がらなければ盛り下がることもないし、話題にならなければ忘れ去られることもない。こんな簡単な理屈はない、ハハハ、と思っていたかどうかは知らない。が、続ける気がないのに、続けるためにどうするかを考えていたことは確かで、面倒くさい人だな、と自分でも呆れる。
 たくさんの人がいま見ているものを一緒に見るのは、楽なことだ。その後、見えなくなったものを見ることの方が、しかし生きるということの実感に近い。

『アフリカ』を始める数年前、谷町六丁目にある韓国料理屋で(私の大学時代の先生である)葉山郁生さんと飲んでいたら、詩人の長谷川龍生さんが『現代詩手帖』の編集者を連れて入ってこられて、紹介された。長谷川さんは私の小説「いつも通りにたたずんで」を読んでくれていたらしくて、こんな話をしてくれた。
「きみさ、女と寝てみて、どうだった?」
 酔っ払って話しているのだが、いきなりそんなことを訊かれる。
「ようするに女です」
 というのは小川国夫の小説からの引用なのだが、そんな返事の仕方は出来なかったかもしれない。自分が何をどう言ったのかは覚えていないのだが、そのあとに返ってきたことばを、忘れることはないだろう。
「だろうね、その後を書かないと」

 話したのはその日、一回限りになってしまったので、その声を私は思い出すことができないが、その微妙なニュアンスだけはずっと心に残っている。「いつも通りにたたずんで」は、その界隈で少し話題になってしまった小説だったから、その頃の私は調子を崩してしまっていたような気がする。だからそう言われたのは、慰めになったのだろう。
 大事なのは、いつだって「その後」だ。「その後」を書き続けてゆこう。