『アフリカ』を続けて(40)

下窪俊哉

 長く続けていて、何か劇的なことがあると、以前のことをたくさん思い出す。私にとって(『アフリカ』にとって)この1年は、そのようにして過ぎたが、どうして思い出すことがそんなにもあり、劇的な出来事に複雑な色を添えるのかと考えてみると、やはり「続けて」きたからだということがわかる。ただし「続けて」いる間にはそうそう劇的なことは起こらないし、悲劇は嫌だけれど、嬉しいこともない、言ってみれば退屈な日常が延々と続くようなものである。
 劇的なことが起こると、この連載の文章にも(良くも悪くもだが)熱が入り、なんと情熱的な文章なんだろう! などと言われもする。確かに書いている方としても、ノッているし、力作が書けたような気がした。しかしずっとそれでは私の精神がもたないかもしれない。そうすると続けることは出来ないのである。力作でもなく大して面白くもないようなものをいかに書き、つくり続けるかということが肝心なのではないか。本音を言えば、ただ穏やかに暮らしていたい、ということにもなろうか。人生は思ったようにゆかないものだ。

 さて、次、だ。と思う。『アフリカ』にかんして、私は、いつも「さて、次、だ」と思っているのである。通り過ぎてきたことに、こだわっているわけにはゆかない。いや、こだわってはいるかもしれないが、とりあえず置いておこう。未来がなければ、過去も消えてしまうような気がする。未来を描くことが、過去を描くことにもつながる。
 とはいえ、どんな展望があるの? と訊かれると、答えに窮してしまう。相変わらずの五里霧中、私はいつでも暗中模索しているのだから。
 もう、つくらなくてもいいのだよ、と自分に問いかけてみる。何もつくらなくても、「続けて」いると言えるようなところまで来ているような気もする。でも、つくり続けているからそう感じられるのだ、とも思われるのだった。こんなふうに自分の中でブツブツやっていても何にもならないことがわかっているので、まずは誰かに連絡してみたり、会いに行ける人には会いに行ったりする。
 八重洲でもう20年以上行きつけにしている喫茶店があるのだが、最近そこで、定期的に会って話している人がいる。厳しすぎる暑さで萎れていた夏を越して、数ヶ月ぶりに会うとまずは近況報告を、ということになった。私にも抱えている問題がいろいろとあるので、つい「いまは『アフリカ』なんかやってる場合じゃないと思うんだ」とこぼしてしまうのだが、その人は涼しい顔をして「『アフリカ』は続けなきゃダメですよ」と打ち返してきてくれる。
 そこで、「なぜ?」とは、簡単に言えない。
 なぜ『アフリカ』のような雑誌をやっているのだろう。
 その前に、なぜ書いているのだろう。人は、なぜ書くのだろう。
 書き始めた若い頃、「なぜ?」はあまり大した問題ではなかったような気がする。しかし、それから四半世紀を通り過ぎてきたいま、「なぜ?」がとても大きなことになっている。

 そういえば春に、小林敦子さんと再会した際、「下窪さんが小説を書き続けられていること自体、大変なことだ」というふうなことを言われたのだった。言われてみれば、小説に限らず、(頼まれもせず)こんなに書き続けている人はあまりいないのかもしれない。でも知らないだけかもしれないよ? という気もする。ひそかに書き続けている人は、きっとたくさんいる。そう思う方が、自分には良いみたいだ。
 小林さんはどうしていたの? というふうに私は訊かなかったと思うが、その話は、原稿に書いて届けてくれたのだった。

 時間が流れたと思う。自分も変わりつづけた。『アフリカ』の創刊のころ、筆名などを使って、ただ書いて、書いて、文学への気持ちを高めた。ひどく懸命だった。十年以上が経って、かつていた京都から流れ出て、瀬戸内の街で教員の仕事を始め、子どもを生んで、人と別れ、居をかまえた。ずっと文学のことを話しては書き、書いては話していた。けれど自分の中の文学は変わらぬようで、どんどん変わっていった。自分の精神に生活が広がっていった。(小林敦子「再びの言葉」/『アフリカ』vol.36より)

 生活に追われて、書けなくなる。簡単にそう言ってしまうと、よくある話かもしれないが、だからこそ、よくわかる、というふうにも思えるんだろう。
 自分に照らして思い返してみると、とくに幼子との暮らしは、私の人生を一度リセットしたような感じがあった。子が生まれてくるより前に、自分がどんな日常を送っていたのか、うまく思い出せないのである。確かに小説は(あまり)書けなくなった。でも常に何かは書いていた。書くことを自分の仕事の一部としたからだ。ただし原稿で稼ごうとはしなかった。書くことをめぐる仕事を、自分でつくったのである。いろんな名称があったが、総称として「ことばのワークショップ」と呼んでいた。私はそのワークショップの「案内人」ということになっていたが、自分もその中に入って、とにかく書き続けた。その結果、日の目を見ていない(もちろん『アフリカ』にも載っていない)原稿が山ほど生まれた。その延長にある営みが現在、ウェブ上で毎月リリースしている『道草の家のWS(ワークショップ)マガジン』である。そこでは粗製乱造を推奨している。とにかく何でもいいから書こう、書いたものを残しておこう、というわけだ。

 ワークショップを始めて以降、「まだ書き続けるのか」「では、なぜ書くのか」と自分に問い続けてきた。リルケのことばを思い出すのだが、書かなくても生きてゆけると心の底から感じられるのなら、止めたらいい。でも自分の答えは、生きるために書きたい、なのである。あるときに、では雑誌をやるのは? と浮かべた問いを見て即座に、闘うため、と出てきた。何と闘っているのかはわからない(『ドン・キホーテ』か)。
 言ってみれば、答えはどうでも、何でもいいのである。その辺に打ち捨てられていることばを拾って、答えに当てはめてみればわかる。そうか、そういうものかもしれないな、と感じられるはずだから。大事なのは、「なぜ?」という問いの方だ。
 つまり「なぜ?」を考えることが、書くことにつながり、雑誌をつくることにもつながる。
 自分はなぜ『アフリカ』をつくるのだろうか? その問いを持ち続けることが、次号につながるのである。さて、どうなりますやら。