『アフリカ』を続けて(43)

下窪俊哉

 前々回、鶴見俊輔さんが『三人』について書いている文章に触れたが、そういえば、と思って部屋の隅にある本の山を見たら、『日本の地下水 ちいさなメディアから』が呼んでいた。編集グループSUREが2022年に出した本で、雑誌『思想の科学』で複数の執筆者によって連載されていた「日本の地下水」のうち、鶴見さんの文章だけを集めた1冊。1960年から1981年にかけて、全国各地でつくられていたいわゆるサークル誌、同人雑誌などの小雑誌を時評しているものだ。
 気になったタイトルの文章を拾い読みしつつ目次を眺めると、じつに様々な雑誌があったものだ、と感心する。誌名を並べるだけで内容が想像出来たり、出来なかったりするが、それも面白い。
『函館文化』『精神科年報』『福沢研究』『科学と技術の広場』『修学旅行』『北方の灯』『小さい旗』『江戸っ子百話』『いとこ会誌』『原点』『みちずれ』『耳栓アパート』『平和のために手をつなぐ会ニュース』『発言』『騒友』『瓢鰻亭通信』『映像文化』『本の手帖』『新人文学』『ユリイカ』『独楽』『ピッコロだより』『週刊ポストカード』etc.
 黒川創さんの解説によると、敗戦から5年がたって1950年代に入る頃から、「職場や学校、地域社会などで、サークル活動がさかんになった」。戦後復興の時代に、「文芸や美術、学問、趣味をめぐる同好会、職業上必要な新知識を取り交わす集まり、また、病気や暮らしの上での困難を分ちもつ場としても、自発的に形成された「サークル」が機能した」のだという。文章を書いて、雑誌をつくるのは何も文芸をやる人たちだけの営みではないので、様々なサークルで、「自分たちの活動の記録や成員間の連絡のために、同人誌・会報などの手製の印刷物」がつくられた。『思想の科学』も、この連載でよく出てくる『VIKING』も、『水牛通信』も、大雑把に括ってしまうと、そういった雑誌のひとつだったと言ってよいだろう。もちろん『アフリカ』もその流れにあるわけで、戸田昌子さんが「サークル活動」と言った背景には、そんな歴史があるのだと言ってみたいところだ。
 このような活動は、マス・コミュニケーションの対極にあるものだろう。復権文庫というところでつくられた本について書かれた「盲者につきそう神」の冒頭で、鶴見さんはこう書いている。

 一冊の本を世界中の人に読んでもらいたいという考え方は、わからないこともないが、おしつけがましいと思う。
 聖書は、一冊の本としてみる時に、とてもよい本だと思うのだけれども、この一冊の本が、地上ただ一つの本として人におしつけられてきた歴史を考えると、いやな気がする。
 一冊の本が、それほどひろくみなに読まれなくてはならないものか。

 それに続けて、「自分だけが読む本」として日記帖のようなものが「現代のように、おしつけがましい文化の時代には、かえって大切なものになる」と書いている。1971年11月の文章である。
 昨年、ここで『アフリカ』を始めた頃のことを詳細に書こうとして、2005〜2006年当時の自分がつけていたノートが貴重な資料になった(それがなければ書けなかった)ことを思い出す。私は今、このSNSの時代、各々がゆるく閉じた場をいかに持ち、営み続けるか、問われているような気もするのだ。

 さて、秋に出るはずだった『アフリカ』次号はまだまだ時間がかかりそうなので、春に準備してあった私の本を先に出してしまおうということになった。この連載の(1)から(33)までを順番に収録した「『アフリカ』を続けて①」だ。連載順に並べたのはなぜか、ということは、あとがきに書いた。それから、各回にタイトルをつけた。

『アフリカ』を続けて
 どうしてアフリカなんですか?
 常に揺れている
 プライベート・スタジオ
 珈琲焙煎舎
 行きつ戻りつ
 いたずら書きの向こうに
 自由を感じる
 何ということもない連絡
 井川拓さんの遺稿
 新たに読み解いてゆく
 大きな死者
 身近な読者を感じる
 背を向けて
 日常を旅する雑誌
 プライベート・プレス
 書くための場
 どうでもいいのだろうか
 ワークショップ・マガジン
 小さな石
 読み手が書き手に
 さまざまな時間
 戸田昌子さんとの対話
 売る気
 年譜を眺めて
 待つということ
 ベースキャンプに届いた訃報
 一緒につくろう
 しぶとく想像して
 大事なものだった
 記録されている
 その先の風景
 印象的な手紙
 徳山駅から西へ
 年譜(二〇〇五〜二〇二三)
 あとがき

 最後の「徳山駅から西へ」だけは20年前に書いてあった古い文章で、『寄港』第4号に載っていたもの。『アフリカ』を始める2年前の、ある夏の日を書いたものだが、それをなぜここに入れたかということは、それもあとがきに書いた。
 この本はアフリカキカクではなく、どこか他所に出してもらった方がよいのかもしれないとも思ったのだが、縁のあるいろんなもの・ことを自分たちで雑誌や本にして残しておこうという活動の記録なのだから、この本もまずは自分たちで出してしまうのがふさわしい、と考えることにした。
 いつものように、ごく少部数でいいから、仮に本にしておくというつもりでつくればよいのだ。
 今回はタイトルが、ギリギリまで決まらなかった。「『アフリカ』を続けて」はサブ・タイトルだよね? という話になり、何か本の全体を照らすようなことばがないか、と探りつつゲラを読み返してみていたが、あるページを見た時にふと「夢の中で目を覚まして」というフレーズが目に飛び込んできた。
 パッチリと目を覚まして現実の中でやろうというのではなく、ボンヤリとした夢の中に生きようというのでもない。夢の中で目を覚まして、語り合えるような存在が私たちの人生には必要なんじゃないか。そう考え、書いた日のことを思い出しつつ、

 夢の中で目を覚まして ─『アフリカ』を続けて①

 というタイトルを、この本に寄せた。

 本文中にも出てくるエピソードだが、守安涼くんから言われなければ、私はこの連載を自ら本にしようとは考えなかったかもしれない。そこで、今回は久しぶりに守安くんに装幀だけでなく組版まで制作全般をお願いした。久しぶりというのはいつ以来だろうか、調べてみないとわからないけれど、15年ぶりくらいかな。
 本文を2段組みにしたのも彼のアイデアで、文字を詰め込んで、出来るだけ薄い本にしたいという気持ちの表れと言ってしまえばそれまでだが、「昔の文学全集みたいでいいかも」という話になった。詰め込んで、と言うわりには読みやすくなったと思う。
 自分でやってしまう方が気楽で、自由に出来るのは確かだけれど、こうやって他人に任せる領域が増えると、そのぶん本がふわっと目に見えない拡がり方をする。多少気を遣ったり、不自由な部分もあったりした方が、ものをつくるのにはよいのだ、と思うところもある。もっとも、仲間内に仕事の出来る人がいて、ボランティアで協力してくれるからこそではあるのだけれど。
 いつものように校正の黒砂水路さんにもつき合ってもらって、春と、年末の入稿前の2回、見てもらった。彼はこの「水牛のように」での連載も毎回、校正してくれているので、3回は見ていることになるが、それでもまだ何か見つかるので呆れたようなことを言っていた。ありがたいことだ。
 印刷と製本もいつものニシダ印刷製本、二十数年来の付き合いだ。入稿の連絡をしたら社長さんから返信があり、「下窪さんと『アフリカ』の足跡ですね。『寄港』まで出てきて大変なつかしく思いました。作業しながら更に読み込んでしまいそうです。気をつけなければ」とのこと。
 この本をつくりながら気づいたのは、自分は書き手というより、登場人物のひとりなのだ、ということだった。この人の見てきたものを、共に見たい、と他人事のように思ったりもした。
 いつしか、自分のやってきたことも研究対象になる、ということ。なぜ、こんなことをやってきたのだろう、と。
 この本の中には、同人雑誌やミニコミをやってきた人たちの歴史があるし、縁の深い複数の死者との、ことばにならない対話もある。もちろん『アフリカ』に書いて(描いて)、かかわってきた人たちがたくさん登場する。
 書き手としての私は、過去の自分を含む彼らの声を聴き、書き写すだけでよい。
 自分のやってきたことなのに、こんなにもわからない。ということは、もっともっと、幾らでも書けるような気がする。ものを書く人として、こんな幸せなことがあるだろうか。