言葉と本が行ったり来たり(28)『チワワの赤ちゃん365日の育て方』

長谷部千彩

八巻美恵さま

 明けましておめでとうございます。
 往復書簡と謳いながら、間があいてしまって申し訳ありません。
 新年二行目から謝っている私です。

 八巻さんから九月にお返事をいただいて、私からもすぐに手紙をと考えていた矢先、また遠方に住む親族のひとりが緊急入院し、同時期、Kさんのニューアルバムとコンサートの企画制作に携わっていたこともあり、秋は忙しさのピーク、バタバタしている間に2024年が終わってしまいました。
若い頃は、若いときが一番忙しい、年をとったら時間に余裕ができるはず、と思い込んでいたけれど、現実は全く違いますね。生きている限り、身支度やら家事やら日々やることは山ほどあるわけだし、縁側でのんびり日向ぼっこするおばあちゃんなんて実は昔から存在していなかったのでは、と疑ってみたり。そんな優雅な暮らしを夢見てはいるのですが。

 それなのに、憧れの生活からますます遠ざかっていくとわかっているのに、先月から仔犬を飼い始めました。生後三ヶ月。私と誕生日が一日違いで、私のもとに来るまで、ちーちゃんと呼ばれていたそうです。私も幼い頃、ちーちゃんと呼ばれていたので、縁を感じないわけでもない。けれど、犬を飼いたいと思っていたわけでもなく、そもそも犬に興味もなく、毎日散歩に連れていくなんて面倒なこと、私には絶対に無理、犬を飼うなんて考えられない、と放言していたのに――自分でも無謀な決断をしたと思っています(飼ってみようと思ったきっかけもあることはあるのですが)。

 それでも面白いと感じることもいろいろあって、そのひとつが、昭和の犬の育て方と令和の犬の育て方がまるで違うということ。いまは、できるだけ叱らない。正しいことをしたときにほめてしつける。フードは体重に合わせて計量して与える。歯周病防止のために毎日歯磨きをさせる。寒さに弱い犬種と暑さに弱い犬種がいるので、室内の温度を調節する(私が飼っているチワワの仔犬の適温は28度!暑い!)、などなど。友人たちに話すと、えー、俺が子供の頃は家族の残りご飯をあげてたよ!とか、うちでは犬が悪いことしたら丸めた新聞紙でポーンと叩いて叱ってたよ!という話を経て、いまのあなたの育て方、ちょっと過保護じゃないの?と私のほうが笑われてしまいます。その言い分もわかるのです。私自身、仔犬を飼うまで、服を着た小型犬とすれ違うたび、飼い主のエゴ丸出し・・・、と批判的な目を向けていたから。けれど、育て方を学んでいくと、犬の服にしても、その他のことも、それなりに理屈があって(過剰なものも確かにある)、人間も昭和に奨励されたうさぎ跳びをもうやらないしね、それと同じね、と180度捉え方が変わりました。

 そしてもうひとつ。こちらはハッピーなこと。仔犬は三回目のワクチンを受けるまで、屋外の地面を歩かせることができません。その代わり、抱っこ散歩というものをします。文字通り、仔犬を抱っこして飼い主がてくてく歩く。目的は社会化トレーニング。さまざまな音や動くものに慣れさせ、飼い主以外の人間の存在を認知させるのです(人間の赤ちゃんでもやりますよね)。これが意外と楽しくて、仔犬がつぶらな黒い瞳でまぶしそうに空を見上げている様子、救急車のけたたましいサイレンの音に怯える様子、駆け抜けていく子供たちを首を伸ばして目で追う様子、その姿から、蜜柑ほどの小さな頭に世界をインストールしているのが窺えます。それらはささやかなことだけど、ダイナミックなことでもあり、そこに立ち会う喜びがある。そして、イチョウの葉の残る冬の道を、小さく温かなものを腕の中に抱いて歩くというのもなかなかいいものだな、その幸せを私はいま仔犬に与えてもらっているんだな、と実感するのです。
とはいえ、トイレトレーニングもまだ途中。フードも毎回お湯でふやかしてあげないといけないし、歯の生え変わり前で甘噛みも激しく、まだまだパピー、手がかかる。小説を読んでもちっとも没頭できず、未読本は積み上がっていくばかり。唯一、集中して読み込んだ本、それが『チワワの赤ちゃん365日の育て方』です。

2025年1月3日
長谷部千彩

言葉と本が行ったり来たり(27)『無意味の祝祭』 八巻美恵