『アフリカ』を続けて(45)

下窪俊哉

 3月の「水牛」が更新される頃、私は岡山に滞在している予定で、ちょうど1年ぶりだ。2日に行われる「おかやまZINEスタジアム」に出るだけなら、朝早くに家を出て新幹線に乗れば開始時間に間に合いそうなので、日帰りでも行けそうだ。それをわざわざ2日かけて行くのには理由があって、この機会に、会える人には会っておきたいという気持ちがあるからだ。初日は大阪に泊まって、この連載にも登場したことがある数人と久しぶりに会い、語り、岡山でもその続きをやる。どちらかというと、その旅の方が主眼と言える。イベントが始まる時には、もう打ち上げのような気分でいるかもしれない。

 その「ZINEスタ」では、守安涼くんのブース「Huddle」を乗っ取って(手伝って)、いま出せるアフリカキカクの本や雑誌をズラッと並べる。
 私の単著も3冊あるので(『夢の中で目を覚まして – 『アフリカ』を続けて①』と『音を聴くひと』、『海のように、光のように満ち – 小川国夫との時間』)、その場で買ってくださる方へのオマケがあるといい。せっかく「ZINE」のイベントに出るのだから、私の思い描くZINEがどんなものか、つくってみようと思い、『試作版 私の創作論』という小冊子も準備した。
 A6(文庫サイズ)で表紙含め16ページ、自宅のインクジェット・プリンタで刷って、1枚1枚を自分の手で折り、重ね合わせて、本当はそのままにしておきたかったのだが、それだとバラバラになった時に面倒なので紐を使ってゆるく綴じた。
 久しぶりにやってみたのだが、印刷・製本業者に入稿して指示を出してやってもらうというのがいかに楽か、わかる。それに出来上がった冊子には所々汚れも見られるし、ヨレている箇所がないかと言われたらあり、製本は意図した結果とはいえ適当。でも、これが、私の思い描くZINEのかたちなのである。そこに絵を加えたり、色を重ねたり凝ったことをしたら、アートブックのようになるかもしれない。少量しかつくらないがゆえに、出来ることがある。
 肝心の内容だけれど、思いついたのが1週間前だったので、新たに何かを書くような余裕はない。ウェブの「WSマガジン」に書きなぐっていた「私の創作論」の、最初の方から原稿を拾って、やってみようと思った。
 書くことの原点の話というか、いわば概論なので、わかっている人には当たり前のことばかり書いてあり、面白くも何ともないかもしれない。その、面白くないものをあえて書いておきたいと思って、試みているものだ。
 出版業界には誰かに「書き方」を教えたがっているような本がたくさんあるけれど、そんなことは書く人が自分で探るしかないと私は思う。でも、書くということがどんなことなのか、見渡してみる本なら、自分の手元にも欲しいかもしれない。
 そう考えてみると大きな仕事なので、まだ序の口なのだが、その序の文章を推敲し、元の文章からどんどん削って、仮のかたちにしてみた。

 SNSをやっているか、そういうイベントに行かなければ出合うことはないだろうけれど、いま「ZINE」をつくる人が増えていると言われる。書く人は、自ら本をつくればいいんだ、という考えが広まってきたとすれば、良いことだと思っている。手軽に自分の書いたものを本にして、売る機会もある。実際に売れたら嬉しいだろうし、本というかたちになると達成感もある。
 しかし私はそこに、落とし穴を見てもいる。
 なぜ、書くんだろう。なぜ、本をつくるんだろう。なぜ、それを見ず知らずの人に売って読んでもらうんだろう。
 そんなことは簡単にはわからない。
 つまり私は、簡単には本をつくりたくない、と思って、ずっとやってきているのである。
 簡単につくりたくないし、簡単に売りたくもない。いまは売るのが手っ取り早いので、仕方なく売っているだけだ。他の、もっと良い方法が見出せたら、売るのは止めるかもしれない。私にとって重要なのは、書き、編集して本をつくり、読むという営みを共に支えてくれる人たちの存在だ。売り・買いだけの経済で回そうと思うと、無理が出る。いわゆる出版社のようにはいかないのである。

 本をつくりたい、という相談を受けることが、たまにある。話を聞いた私の答えは殆どの場合、焦らないで、時間をかけてじっくり取り組んでください、というものだ。それに、何だかみんな孤独な感じで、心配になる。でも連絡をしてきている時点で私とは出合っているのだから、私の書いたものやつくってきたものに触れて、何か話をしてくれたらよいのだが、多くの場合そういうことはないのである。
 一方で、『アフリカ』に載せてほしい、という連絡も最近は少しずつ増えてきた。でも、残念ながら、載らずに終わる原稿も増えている。ある時は「ダメですか?」と言われて、考え込んでしまった。この原稿はダメだ、と思うことはない。この原稿では「まだ」載せられないんです、とその時は伝えたのだが、いまもまだ考えている。
 とはいえ、これは載せたいな、と密かに思っている原稿もある。ふと思ったのだが、「まだ」と感じる原稿の多くは書き手が自分を、というより自分の心の内を吐露しているに留まっている原稿が多いような気がする。これはよし、と思う原稿は他者を描いている、少なくとも描こうとしている、ということではないか?
 文章に限らず、どんな表現でもそうだろう。自分の思いを出すものではないのだ。小川国夫は「深い影のなかは、あとあと時間かけて探ればいい。大事なのは出合うことだ」と言っていた。
 先日、映画制作のワークショップを記録した『FUKUSHIMA with BÉLA TARR』を観たら、タル・ベーラが受講生に「人と出会ってこい」ということをくり返し言っていた。観念的な構想しか持っていない人であればもちろんだが、かなり具体的な企画を持っている人であっても、そこで出合う人に導かれて、それまで思いもしなかった映画を撮り始める。
『FUKUSHIMA with BÉLA TARR』を撮った小田香監督によると、「ベーラの映画作りの核にあるのは、世界のことを知ったり、人生について考えたりすることが先にあって、作品はあくまでもそこに付随するものだと、個人的には受け止めています。映画とはこうあるべしとか、スタイル云々というよりも、人と出会うことからはじまります」とのこと。
 同じことが書くことにも、本をつくることにも言える、と私は考えているのである。誰かと出合って、まず始めるにあたって、「雑誌」という場は何と魅力的であることか。