『アフリカ』を続けて(52)

下窪俊哉

 9月最後の土曜日、名古屋市のTOUTEN BOOKSTOREで始まった唐澤龍彦さんの個展を観るため、新幹線に乗って出かけた。
 唐澤さんはこの連載の(47)で、少し登場していた。群馬県桐生市在住の画家・音楽家だが、表紙画・挿画を手がけている『るるるるん』で小説を書いているメンバーのひとりである3月クララさんが名古屋在住で、今回の個展はクララさんが企画したものだ。横浜から行くとなるとお金もかかるし、そのためだけに、と考えると貧乏人の私には迷うところだが、8月にFM桐生の「The Village Voice」にゲスト出演した際、唐澤さんから密かに話を聞いて、ピーンとくるものを感じた。
 名古屋には、当初詩を載せないと言っていた『アフリカ』に長年詩を書いている犬飼愛生さんがいる。最新号に「僕のガールフレンド」を書いている奥野洋子さんも名古屋在住だが、会ったことがなく声を聞いたこともない、メールだけの付き合いだ。犬飼さんとも、考えてみれば、コロナ禍を契機に画面ごしにはたくさん話したが、実際には2010年以降会っていない。広島、岡山、大阪(関西)、と縁の深い人たちを訪ねる旅の次の行き先は名古屋だろうとボンヤリ考えていたのだった。
 ピーンときた背景にはそんなことがあり、どうせ行くなら唐澤さんが在廊している初日に行きたい、と連絡してみたら犬飼さんも奥野さんも予定が空いているという。唐澤さんの個展会場に集まる、というのは素晴らしいアイデアだった。駅で待ち合わせして食事に行くというのではなく、そうやって小さく開かれた場で会うことによって、『アフリカ』を読んでいる人、興味を持っている人とも会えるかもしれないという期待が持てるから。可能性は広げておく方がよい。その点、SNSが今回も良い仕事をしてくれた。

 TOUTEN BOOKSTOREは、金山駅から南へ徒歩10分ほどの場所にある。かつて栄えていたかもしれない、こぢんまりとした商店街の一角で営まれている書店で、珈琲やお茶やビールやお菓子なども出し、2階にはギャラリーとして、イベント・スペースとして使える空間を有している。どことなく東京・荻窪のTitleを思わせるが、荻窪のあの場所のような人通りはなく、しかし店をめがけてくる人はチラホラあり、秘密基地のような雰囲気がある。一緒に来た息子も本屋をうろうろして楽しんでいた。ギャラリーへは急な階段を上って行く。

 今回は新作展ではなく、唐澤さんの画業の中心にあるアクリル画、ペン画、ペン画に着彩したもの、『るるるるん』に提供した作品の原画や別バージョンとエスキース、イラストと音を組み合わせた画面上のインスタレーション、etc. をズラッと並べたもので、ベスト・オブ・唐澤龍彦とでも言えばよいだろうか。ペン画は展示されている以外にも、ファイルに入れて置かれてあり、自由に観ることが出来る。今回の個展に合わせて制作された作品集『ソファはわたしのために』も展示、販売されている。
 ジャン=ミシェル・フォロンら欧米のイラストレーター、デザイナーに影響を受けたという絵は、可愛げがあり、どこか滑稽でもあり、でも大真面目である(ちなみに、フォロンの絵本の話がこの連載の(33)に少し出てくる)。その作品の多くに、長めのタイトルがついている。「たった一輪だけ咲いた花を摘んでしまうのか」「長靴をはいたねこは水をまく」「きのうまでのわたしときょうのわたしはだいたいおなじ」というふうに。
 文章を書くことには苦手意識があるそうだが、苦手そうなそぶりを見せずにスパッと書く文章が小気味よい。子供が読んでもフッと笑ってしまうようなもので、作品集から少し引用してみよう。もちろん絵に添えられているものだ。

 そろそろ起き出そうかというところ
 まず前足をおろし
 後ろ足はソファに残したままで
 しばらくその姿勢で伸びをして
 今日の予定をかんがえる
 そして何も予定がないことを思い出し
 またソファにもどって寝ようかと迷う

 このままうしろに下がるのはむずかしいな
 いちど降りてソファにのりなおそうか
 いちど降りたらもう起きてしまおうかと思うだろうな

 と、こんな調子だ。ギャラリーで話を聞く。唐澤さんが日々、SNSに投稿しているペン画は、2011年から殆ど毎日、2、3枚のペースで描き続けているものだそう。1日平均2枚として1年で730枚、14年間で10,220枚。積もり積もった膨大な作品数と言える。
 1枚を描くのに15分くらいかかるそうだから、3枚描くとして1時間弱はかかると考えたらよさそうだ。多くが猫のようで、そうでもないような動物のイラストレーションである。どの絵にも何か物語があるようだ。そんなに描いていたら、何を描こうか思い浮かばなくなることがありそうですけど、と訊いたら、とにかく手を動かすのだという話だった。そこで私は自分が2016年から毎日書き続けている「朝のページ」を思い出した。「朝のページ」も考える前に手を動かすのである。
 作品集の前書きでは、画家自身がこう書いている。

 それ以前から気が向いた時に透明水彩やアクリル絵の具などで絵を描いたりしていましたが特に発表、展示をおこなうこともなかったので作家である(アマチュアとは言え)という意識はこういう継続的な制作から生まれたと言えます。

 継続が自分を作家にしたと語っている。唐澤さんはアマチュアじゃないですよ、と私は思うが、自分はプロフェッショナルだが作家ではないと考える人もいるだろうし、ここでは問題にしない。とにかく毎日のペン画を継続していることが自身を作家と意識づけているというのは私にはたいへん興味深いことだ。
 この連載は『アフリカ』という主題と、「続けて」というもうひとつの主題があり、その間をつなぐ「を」がある。何を言っているのヤラ? という気もするが、先へ進めよう。
 お喋りをしていたら『アフリカ』を読んでくださっている方が早速来てくれて、もちろん初対面でご挨拶させてもらう。そうこうしていると犬飼さんも、奥野さんも到着して、わいわいと話が弾んだ。
 犬飼さんは、編集人(私だ)との例の”セッション”が『アフリカ』の質を担保していると話していた。この話はもう何度も書いているはずだが、奥野さんは最新号で初めてそこに参加した感想として、「楽しかった」とくり返し言っていたのが印象的だった。それをきつく感じる人もいるだろう。唐澤さんはその話を聞いて、「まさかそこまでしているとは」と信じられない様子だった。つまり書いて送られてきたものを、そのまま載せていると思っていた? 犬飼さんによると多くの詩誌ではそうらしい。詩以外の雑誌でもたぶんそうなのだろう。しかし私は、「質」を考えてやっているのだろうか。少し違うような気もする。編集人としての自分がどう読んだかを伝え、ひとりで書くだけでは行き着くことの出来ないところまで行くために『アフリカ』をやっているとは言えそうだ。発表するのは、ついでにしていることであって、一番の目的ではない。とも言ってみたいところだが、『アフリカ』で発表することがなければ、その、遠くまで行くことも出来ないのだろうから頑張って雑誌を仕上げ、読みたい人には販売している。販売するのは、読者と出合うためである。読者も、これもまた前に書いたと思うけれど、ただの客ではなく、遠い『アフリカ』の仲間であるような気がする。

 今回はそんな読者のひとりから、思いがけず「花束」をいただいた。ただの花束でなく「言葉の花束」なのだが、質素な(と言いたくなるような)デザインの、薄いA5サイズの冊子だ。帰路の新幹線の中で、その冊子を手にとり、開いてみた。中は2段組みになっていて、詩がたくさん収められている。つまりそれは詩集だった。冒頭の詩から順番に読んでいった。そのまま、読むのが止まらなくなった。この人は自分のことを詩人だとは思っていないような気がするし、この冊子も、試しにちょっとつくってみたというふうだ。しかし、書かれている詩そのものは、明らかに、ちょっと書いてみたという感じではない。
 富士正晴の言う「ふしぎな純度をもっている作品」は、こんなふうにして転がっている。この”本”について、私は何か書いてみたい、書けないなら語ってみたい、その前にくり返し読み、何でもいいからことばにしてみたい、という気持ちが一気に押し寄せてきた。