仙台ネイティブのつぶやき(110)思い出の通り

西大立目祥子

9月11日、東京が豪雨に見舞われた。小さな川の水位がみるみる上がり、雪崩打つようにしぶきを上げて道路にあふれ出るようすをテレビで見ていて都市型の災害の恐ろしさを思ったけれど、同時に見入ったのは背景に映る街のようすだった。住宅街にもちゃんと商店があるし、小さな商店や飲食店が肩を寄せ合うように立ち並び商店街を形成している。床上に上がった水をみんなでかき出す姿もあって、街には人の息づかいもコミュニティもあると感じた。人口1400万人。やはり首都というのは違うのだろうか。規模が大きければそれだけ多様な街が存在し得るのだろうか。

こんなことを書くのは、身の回りで商店が消え、空き家が増え、低層の商店街に高層マンションが壁のように立ち、街がばらけて薄くなっていくような感覚を覚えるからだ。もちろん、そこには人の暮らしも人の行き来もあるのだけれども。

長くお世話になった近くの書店が9月30日をもって店を閉じた。外商は残すということなので廃業ではなく本を注文して受け取ることはこれからもできるけれど、この通りから本屋は消える。この通りというのは仙台市太白区長町、かつては長町北町、長町南町といった通りで、私はこの近くで育った。藩政時代は仙台城下を出て江戸に向かうときの最初の宿場町であり、明治時代には停車場が設けられ、周辺の農家が野菜を運び込む青物市場も生まれた。駅はやがて貨車操車場を備えた巨大な貨物ヤードになり、働く人たちが増え、仙台市電も走った。1キロほどの通りには、間口が狭く奥に深い町家がみっちりと立ち並び、さまざまな商品を並べていた。

いま手元にある昭和40年の住宅地図を見ると、通りの西側だけでも蕎麦屋、釣具屋、薬局、豆腐屋、茶舗、魚屋、不動産屋、食堂、床屋、美容院と、ない商売はないくらい多彩で、数えると100店を超えている。両側を合わせたら200店に及ぶだろう。それだけの店がみんなお得意さんを持ってやれていたのだ。小さな店がぎっしり詰め込まれた通りを、子どもの私は歩いていた。友だちといっしょに初めて母の日のプレゼントを買ったのもこの通り。そして最初に自分で本を買ったのもこの通り。それが上述の書店で、もとは丸吉書店といった。いまは協裕堂と名前を変えている。

数年前から私はネットで本を買うのはやめて、この書店で注文して来るのを待った。2、3日もすれば電話が鳴るし、遅くたって1週間から10日も待てば手元に届く。だんだんオーナーとおぼしき年配の女性とも顔見知りになって話をするようになっていたので、知人から閉店するらしいと連絡を受けたときは驚き、訪ねて、それまで聞けなかった店の話をうかがった。オーナーは今野るみ子さんとおっしゃる。

開店したのは昭和12年。創業者は義父にあたる人で、仙台市内では書店の草分けだった金港堂で修業をして現在の店舗よりは南の、長い長町の通りの真ん中あたりで文具店と書店を始めたという。その話を聞くうち、おぼろげな記憶がよみがえってきた。そういえばコンクリートを打った床に木製の本棚を並べた本屋さんだったっけ。毎年初売りのときは漫画の付録を詰め込んだ福袋が表の木製のワゴンに山積みになるので楽しみに買っていた。いちばん分厚い袋を選び、喜び勇んで開けたら中身は全部少年向きの漫画で、大外れのお正月になったことがあった。たしか中学生になったばかりのころ、背伸びした気持ちで筑摩書房のジェーン・エアをこの店で買ったらクラスにまったく同じ本を持っている子がいて、急速に親しくなった、そんな思い出もある。この店で修業をし、近くの町に本屋を出す人もいたのだそうだ。昔は書店もノウハウを身に付けて暖簾分けし、助け合っていたのかもしれない。

協裕堂はその後、長町駅前、近くの国道沿い、仙台の南の名取市や岩沼市まで店舗を出し、レンタルのビデオやCDも扱うようになった。「GEOとかがなかったころだったから、よく売れたのよ」と今野さん。東日本大震災のあと、本を買いに来る人が増えたという話が興味深かった。「雑誌なんて1、2ヶ月入らなかったのにお客さんが多くて、みんな店にある本を買っていくの。ずいぶん売れたの」。なぜだったのだろう。食べるものがなくて食料品店やスーパーにはみんな辛抱強く長い行列をつくった。コンビニは長く閉じたままだった。毎日のことがままならなかったのに、自分と向き合うため、自分を落ち着かされるために読むことが必要だったのだろうか。みるみるお客さんが減っていくのはそのあとらしい。「みんな注文して何日も待つなんてできなくなったのよね。もう若い人なんてこないもの」

協裕堂の隣にあった小さなスーパーも、たしか昨年閉店した。そのあとは空いたままだ。その先の花屋も今年、商売をやめた。道路にも並べていた切り花や鉢物はすっぽり消えて殺風景。小さな店が生まれては消えていくことも多い。その先の豆腐屋はずっと頑張っている。通りの真ん中あたりに、まだ郵便局と銀行が2行あるから持ちこたえているのかもしれない。

通りを行き来しながら、ああもう八百屋も魚屋もわずか1、2軒になったんだなと思う。かつてのこの通りには、小さな商店の並びに割り込むようにスーパーマーケットが3軒もあった。人があふれ、どこもにぎわっていた。多くの人が歩き、荷物をかかえてバスを待ち、商品の積み下ろしをしていた。スーパーで買い、個人商店でも買った。そして多くの人がしゃべっていた。店の人と、客同士でも。

いましか知らなければ、けっこうにぎわっていてお店も多い、と人は思うのだろうか。こんなんじゃなかったと思いながら歩く私は、あのころの記憶の中のまちの風景をいまもどこかにあるはずだと思って探しているだけなのだろうか。