『アフリカ』を続けて(57)

下窪俊哉

 2月の最後の週、14年間暮らした家を出て、引っ越した。新居は少し古めのマンションの3階にある部屋で、元の家からは徒歩20分くらい、最寄り駅までの歩行距離はこれまでと殆ど変わらない。

 2012年3月に引っ越した時のことは、『アフリカ』vol.15(2012年7月号)の編集後記に書いて、2020年に出した私の作品集『音を聴くひと』にも収録してある。その時々の『アフリカ』がどんなところでつくられているかは、重要なことだろうから書き残しておきたかった。
 その家は築40〜50年(推定)の木造2階建てで、私たち家族はそこを借りて住んでいたが、2年前に、家の老朽化や大家の高齢化、不動産屋の廃業などを理由に挙げられ最後の契約更新ということになった。住んでいる方に何の理由もなく引っ越さなければならないというのは私には初めてのことで、戸惑いが大きかったが、同じ家に14年住んだというのも初で、私の人生の最長記録となった。
 荷物の整理をしていると、14年間の痕跡は深く、とても冷静ではいられない。自分の心をないものとして、移動するために物を捨てる、捨てる、捨てるとくり返した2月だった。
 私の部屋には、やはりというか当然というか、本や印刷物が多い。雑多な本は少し大きめの段ボール5箱分を売却することにして、業者に持って行ってもらった。数百冊を手放したはずだが、これもまたやはりというか、殆どお金にはならないので、売ったというより処分したと言った方が自分の気分には近い。それが自分の蔵書の何パーセントを占めていたのか、と数えてみても、おそらく大した割合ではないだろう。残された本を押入から引っ張り出してみて、それでも部屋が占拠される。私は精神的に、というか何というか、本の群れに潰されかけていたと思う。大元を辿ると、それは樹木である。隣に立っているタイサンボクを窓から眺めては、木は強いね、と心の中で語りかけた。本が怖くなったが、木はなお親しい存在としてある。これからの人生、どこへ行っても、私はそのタイサンボクを忘れることはないだろう。

 その木が植えられたのは数十年前、お隣さんが幼稚園生の頃だそうである。彼女の父親が植えたタイサンボクは、当時の子供の背丈より低かった。そこは土が良いのだろう。草の勢いがすごい。その木もどんどん伸びて、家の背より大きくなり倒れてきそうになるので(そう見えるだけだろうが)仕方なく枝葉を散髪される。そうなると少しシュンとするように見えるが、やがてまた元気になり、家の背を抜いて大きくなっている。というのを、私たちが住んだ14年の間にも、何度もくり返した。初夏には甘い香りを振り撒きながら、眩しいほどの大きな白い花を咲かす。今年はもうそれを見ることが出来ないと思うと、やはり寂しい。

 その家の住所には「台」という字が入っている。新居は「町」である。
 高台から町へ下りて、新たな暮らしを始める、ということになった。すぐそばにスーパーやコンビニがある。郵便局もある。注文を受けて本を送るのにも便利だ。ただ、これまで不便な暮らしをしてきたという実感はなくて、比較対象があってこその感想にすぎない。

 アフリカキカクの住所は2019年より「横浜市道草区道草本町1丁目1番地」になっているので、それは変わらない。架空の土地、フィクションである。
『アフリカ』を最初につくった20年前には、当時私がひとり暮らしをしていた京都市中京区のマンションの一室が発行所になっていた。
 その翌年には前に住んでいた大阪に戻り、同じく私の暮らす部屋が発行所になった。
 2010年の春には東京都府中市に引っ越して、その翌年の秋、隣の長屋に珈琲焙煎舎が開店して仲良くなり、私が結婚して横浜に引っ越す際には、『アフリカ』の発行所はその店に引き受けてもらった。
 2018年には短期間、武蔵野市の美術アトリエに所在していたこともあるが、その頃にはもう、アフリカキカクの所在地がどこにあるかなんて重要なことではないと気づいていたかもしれない。
 現実には、私という発行者がいるだけだ。そして、その私は、書く人でもあるのだった。

 書かれたものは何であれ、本質的にはフィクションである。ことばというもの自体がフィクションだからだ。ただし、読んでいる人がそれを嘘物語として読むかというと、けっしてそうではない。現実として読む。フィクションというのは嘘物語ではない。もうひとつの現実が立ち現れるというか、作者の側から見ると、嘘をつくことで、書いたものが現実を超えてゆく。

 アフリカキカクは書くものの中に、間に、ある場所なので、住所も書くものの中に、間に、ある。ただしフィクションの住所から本は送れないので、封筒にはちゃんと現実問題として私の住所を仕方なく書いてある。開封して(あるいはどこかの本屋か本の市で見つけて手に取り)本を開き、奥付を見ると、「道草区道草本町」が現れるというわけだ。

 自分たちの住む家を「道草の家」と名づけたのは、私だったかもしれないし、当時、珈琲焙煎舎にいた焙煎士だったかもしれない。私の愛称が「道草さん/道草くん」だったので、「道草」の住む「家」ということだったのか、狭い路地の、袋小路の奥にある家なので「道草」を誘ったのか、もう覚えていない。
 しかし私はいつしか、「道草の家」は自分のいる、ここにだけあるのではない、どこにでも存在する、と考えるようになった。それがどういうことなのか、私にはまだわからない。

 アフリカキカクの在庫は持ってゆかねばならない。しかし、これが重い。14年前にはまだ『アフリカ』は創刊から6年たったところで、今から思うと大した在庫数でなかった。今年、創刊20周年である。その日常を旅しているらしい雑誌だけではなく、いろんな本をつくってきた。在庫を段ボール箱に詰めながら、「これ、まだつくり続けるの?」という気持ちに少しでもならなかったかと言えば、なった、と素直に認めよう。ウンザリしながらも私は、そこに、あたたかく生きているものを感じる。