自分のつくった最初の本は何だろう? と考えたら、中学生の頃に書きつけていた詩(のようなもの)のノートを思い出す。文庫本くらいのサイズの小さなノートだったが、いま思えば、そこに直接本を書いているようなつもりだった。その頃は小説の文庫本をすごい勢いで読んでいたが、その後の数年はほとんど何も書かず、本も数えるほどしか読まなかった。自分を観察していると、熱くなると数年は続くが、その後には嘘のように醒めて止めてしまう、という性質がありそうだ。
詩(のようなもの)を書いたノートの次につくった本は、20代のはじめ頃、大学を卒業するに際して、それまでの4年間に書き溜めた自作を集めて、編んだ2冊の本だ。本文はワープロでレイアウトして、表紙は見開きにした本文用紙より大きい紙に絵と文字を切り貼りして、ちょうどよいサイズに折り、本文の束の背に糊をして包むようにした。ザラ紙を見返しに使って、少し気取ったりもして。10部か、15部くらいつくった。
大学では文芸創作を学んでいた。と、いちおうは言えるが、創作を学んだ場は大学の中にあったワークショップであり、「こうやって書けばいい」ということを教わったわけではない。そんなことを教えられる人はいない、と前もって知っていたような気もする。どうやって書けばいいかは、自分自身で探らなければならない。同じように、本のつくり方も、前もって誰かに教わったのではなかった。
どうやって書いてゆくかを探る場を自分でつくろう、と考えたのではなかったか。どうせなら他人を巻き込んでやりたい、となったのは、私の性格によるものだったかもしれない。雑誌をやることになった経緯はきっとそのようなことだろう。
人を集めたら、けっこうな人数になった。さあどうやってつくろう? 印刷も手掛ける町の製本屋さんを紹介してもらって、訪ねて行った(それ以来、現在まで20年近い付き合いになっている)。
その頃、パソコンというものを初めて所持し、Adobeという会社がつくっているDTP(パソコンにおける組版)ソフトの存在を知った。仲間に協力してもらって、試しに使ってみようということになる。チームで作業するなら「ページメーカー」というソフトが初心者にも使いやすそうだと言った人がいて、少し使ってはみたものの、初心者用とは使いづらいものであるという結論に至ったので、それ以降「インデザイン」一辺倒になった。2003年のことだ。当時はプリントで入稿する紙版印刷だったので細かいことは言いっこなしだが、しっかりつくり込もうとしていた(ただし表紙は最初からイラストレーターのデータで入稿していたような気がする)。
チームでつくるというやり方は、しかし、日々の暮らしや忙しい仕事の傍らで、片手間にやるには向いていなかった。若き編集長になった私はいつも疲れていて、つねに何か不安を抱えていた。その雑誌は3冊つくって、そのあと手元に残っていた原稿をかき集めるようにしてもう1冊、4号を出した。『アフリカ』を始める前年のことだった。
その頃には早くも、(雑誌に限らず)本をつくるのが苦痛になっており、怖くなっていた。何かつくると、必ずどこからか文句を言われそうだった。実際には誰からも責められていないとしても、そんな感触が本や雑誌をつくるという行為の中に感じられて苦しいのだった。
『アフリカ』を最初に、1冊だけというつもりでつくったのには、そんな個人的な背景があった。つまり『アフリカ』には、この編集人にリハビリをさせようという狙いがあった。
そこで今度は、チームでやるのではなく、できるだけ自分ひとりでやろうということにした。続ける気はない。続けるのは苦手なはずだし、続けなければならないものだとも思っていない(そんな話はこの連載の最初の回でも書いた)。とにかく、少しも大げさなことにはしたくない。できることなら、誰にも知られずひっそりとやっていたいとすら思っていた。
そうやって始めてみたところ、自分の中から湧いてくるのは冗談というか、怖がっている自分ではなく、必死でふざけよう、ふざけようとしているもうひとりの自分で、ページの隅にいたずら書きをし出したのは我ながら可笑しかった。「この雑誌はだいたい信用できます」に始まり、「もし落丁本を見つけたら、貴重です。大切に!」「終わるまで、続きます」とまあそんな調子だ。「ぼんやり口をあけてご覧ください」などと読者に指示(?)を出すこともあった。雑誌をめくっていると、たまに、小さな字でそんなつぶやきが記してある。
6冊つくったあたりで、それまで書いていた人たちが1人、2人と続けざまに抜けてゆくということがあった。数人で始めた雑誌なのだから、一気に2人いなくなるだけで大きい。いわゆる同人雑誌なら、そこで終わってもいいはずだったが、1人去れば、新たな1人との出会いあり、また1人去れば、呼ばれたようにもう1人やって来てくれた。良い書き手がやって来ると、つられて良い読者もやって来るということになっている。それで、この『アフリカ』という雑誌には何かあるなあ、と感じ始めたのだろう。7冊目から、目次の隣に関係各位のクレジットを入れることにした。
装幀、切り絵、写真、イラスト、校正、印刷、製本あたりまではいいとして、制作協力、広報ときたらそんなことをする人や団体が実際に存在するわけじゃないので「つくる」ことにした。書いているとノッてきて、演出、台本、音読、本棚、録音、声援、財布、配達、出前、エトセトラ、つまりフィクションなのだが、嘘であることを隠そうとしていないので、逆に実在するような気がしてくる。たとえば、いつも「差入」をしてくれている「粋に泡盛を飲む会」も本当にあるような気が、しません? その中に、特別賛辞(スペシャル・サンクス)として実際にお世話になっている人や団体の名前も潜り込ませた。
その「ふざける」ということの中にも、何かありそうだ。
いまでも苦しいときには、さて、どんなふざけ方をしようか、と考えると妙なやる気が出てくる。
なぜ、ふざけようと思うんだろう? 誰か(何か)を牽制するためだろうか。牽制すれば、どうなるか。その間合いにハッとした気づきがあるのではないか。ハッとしながら見ると、何やら必死でふざけているのである。そこに、笑みがこぼれる。
そうやって思わず笑うことには、人を楽にさせる効果があるようだ。
楽にやろうよ、どうにでもなるさ、やりたいようにやろう。自分の中のベースを、そこに置いておく。そして困難にぶち当たるたびに、そのことを思い出す。