『アフリカ』を続けて(8)

下窪俊哉

 いま、『アフリカ』vol.33の”セッション”の最終コーナーに差し掛かっていて、他のことをしていても『アフリカ』が頭の中をかなり占拠しており、気持ちに余裕がないなあと思う。もしかしたら自分は本をつくるのにも、何かするのに他人を巻き込むのにも苦手意識があるかもしれないとよく思う。その割には自ら本をつくって、そこに他人を巻き込むのに熱心だ。
 書き手としての自分と、編集者としての自分、いつも何かの企画を考えている自分、本のデザインや組版をしている自分、つくって売ることに向かおうとしている自分、たくさんの自分がいて引き裂かれているような気もしないではない。しかもそれを日々の仕事の傍らでやっているのだから呆れる。なんてぶつぶつ言っていても仕方がない、手を動かそう。

 元々の『アフリカ』は短編小説が幾つかと、その間を埋めるような雑記が入った小冊子だった。小説がメインだったのは小説を書く人が集まっていたからだ。その頃の書き手が1人、2人と去り、その頃に『アフリカ』を止めようと少しも考えなかったのは不思議なのだが、そういえば、そもそも続けようと思っていなかったのだから考えようがなかった。同時期に1人、2人と新しい書き手がやって来ていたので、さあまたやりますか、となる。
 その中には詩とエッセイを書く人もいて(遠慮なく書いてもらった)、そういうことが決まっていない人もいた(でも書きたいことはハッキリしており、書いてもらったらすごく面白いものが出てきた)。

 ジャンルというのは、けっこうあやふやなものだと思う。
 いまつくっている『アフリカ』に載っているある文章で「短編小説集」として紹介されている翻訳本は、その日本語版を出している出版社によると「エッセイ集」なのだが、いや、「小説」でしょう? という話し合いを書き手とした。その出版社が「エッセイ集」としている根拠は、作者の体験を書いているものが多い(らしい)から、という程度のことであり、では小説とは作者の体験と関係のないつくり話のことなのか? というと、そうではない小説もたくさんある。訳者のあとがきを読んでも、エッセイ集という位置付けになるのかもしれない、というくらいの言い方であり、そのへんは曖昧なのだ。
 作者が小説と言えば小説であり、エッセイと言えばエッセイでよいのかもしれない。どちらとも言っていない場合に出版社は困るのだろう。
 私は、というと、小説の中にもエッセイや詩があり、エッセイの中にも詩や小説があるということなのではないか、というくらいに思っている。では、小説とは何だろうか。エッセイとは何だろうか。詩とは何だろうか。そんなこともたまには(たまにですよ)頭の隅で考えながら作業を進める。

 長く『アフリカ』を一緒にやってきた仲間のひとり・髙城青が、ある時にこんなことを書いていた。

 初めは字を書いていたんだけど、今は何故か漫画ばかり描かせてもらっている。「何故か」って本当は「字ばっかり書くのんイヤ。漫画描かせて。」とわたしが言ったからで、編集人はすんなり「いいよ。」と言った。彼はだいたいいつもこんな感じで「イラストに短い雑記を付けたい。」「いいよ。」「イラストと詩を書きたい。」「いいよ。」である。(「一度だけのゲストのつもりで」、『アフリカ』vol.20/2013年7月号より)

 要するに『アフリカ』は何を書いてもいいのである。字数制限も基本的にはない。絶対に文章でないといけないという決まりもない。青さんに限らず、『アフリカ』に書く・描くのを面白がって続けている人たちは「『アフリカ』は自由だ」と言う。どこまでも自由で、気まま。いつも行き当たりばったりだ、ということでもありそうだ。
 その同じ文章には、こんなエピソードも出てくる。

 編集人が最初に声をかけてくれたとき「タブーはないよ。」と言った。わたしはそれで、やろうと思った。いいよ、いいよ、と一緒に実験してくれるけれど、やりっぱなしは許してくれない。何を書いても描いても一段階突き詰めないと載せてはくれない。だからどんなにゆるく見える作品でもそういう気概でやっている。

 突き詰めないと載せないと話したことはないはずである。しかし書き手はそんなつもりでやっているのかもしれない(人によるだろう)。
 それにしても「タブーはないよ。」とは、どんな話の流れでそんなことを言ったのだろう。
 以前、「でも、ヘイトスピーチのようなのは載せないでしょう?」と言われたことがあった。もし「ヘイトスピーチのような」原稿が寄せられたとしたら、「ヘイトスピーチのような」何事かが自分の身近にやってきているということだろうから、気にはなるだろう。しかし古今東西の文学作品には殺人も書かれるし、社会的に悪とされていることもたくさん出てくる。そうではなくて、人種差別的な主張を『アフリカ』から社会へ向けて発表したいとやって来る人がいたら、私はどう返事をするだろうか。「やりっぱなしは許してくれない」そうである。そこで激論が交わされるのだろうか。あるいは?

 さて、『アフリカ』から自由を感じるのは何も書き手だけではないようだ。

『アフリカ』は自由な雑誌だと思う。下窪さんを見ていると「出版とは何か」を改めて考えさせられる。書きたい人が書き、作りたい人が作り、読みたい人が買って読む。シンプルな構造が『アフリカ』にはある。商業出版とプライベート・プレスを同じ土俵で語るのは無理があると言われるだろうが、究極そこに立ち返ることが出来たら、本はもっと美しいものに生まれ変われるのではないだろうか。(笠井瑠美子「一冊の価値を問う」、同じく『アフリカ』vol.20/2013年7月号より)

 そこまで言われると照れてしまう。笠井さんは私が初めてトーク・イベントを開いた時に、来てくれたのだった。私はどうして『アフリカ』がこんなに続いてしまったのだろうと思いながら話していた。

 そういえば、「水牛」に書きませんか? と八巻美恵さんから誘われた時に、「なにかきまりがありますか?」と聞いたら「きまりごとはなにもないです、モチのロン」という返事が来たのでしたね。