尾を引くように~「塩狩峠」から

北村周一

塩狩峠というタイトルの映画を観たことがある。原作は三浦綾子。
調べてみると1973年に公開された映画で、監督は中村登、音楽は木下忠司、脚本は楠田芳子との記載があった。
北海道の塩狩峠付近で実際に起きた鉄道事故が下敷きになっているのだが、小説は読んでいない。この映画を公開されてほどなくに観たように記憶している。その記憶が比較的鮮明なのは、いやいや観に行ったからだと思う。
当時親しくしていた大学の同学年の友人、水沢パセリ(彼のペンネームである、自称詩人)にしつこく誘われたからである。
水沢パセリはその頃プロテスタントの教会によく出入りしていた。
といってもキリスト教に入信したというわけでもなく、ただ英会話の勉強のために通っているというようなスタンスだった。
数人の熱心な信者さんたちからこの映画を観るようにいわれて、引くに引けなくなったのかもしれない。それでみんなで池袋駅前の映画館文芸坐へ観に行くことになった。
文芸坐は、上京したての頃の下宿先が雑司ヶ谷鬼子母神前にあったので、ほぼ毎日のように通った映画館であった。いつも満員だった。地下も地上も入館料は百円の時代だった。
ところでこの松竹の映画「塩狩峠」は封切りだったのだが、残念ながらお客さんはわずかだった。俳優座の役者さんたちが大勢出ていて、映画自体は丁寧に作られてはいたのだけれど……。それからみんなして教会のある世田谷の経堂までもどった。
じつはその頃の下宿先は、このプロテスタントの教会のすぐ西側にあったお宅の二階を間借りしていたわけで、さらに水沢パセリはこの教会の東側にあったアパートの二階に下宿していたのである。
同じ大学同じ学科といっても大量の学生が通ってくるのだから、神田駿河台にあった学内で遭遇することはめったになく、そもそも水沢パセリとの出会いはいかがなものであったのか、それを書いておこうと思う。

思い起こせば当時の神田駿河台は荒れに荒れていて、まるでバラックの中に学び舎が存在しているような感じで、真面目に学問するような雰囲気からは縁遠いところにあった。
とはいえ学内にはそれなりにさまざまな研究会があり、取り敢えず美術研究会に籍を置いてみることにした。研究会の顧問は東京都内の画家のようで、渋谷にあった画家個人のアトリエを開放していた。青山研究所といわれていたように記憶している。そこで一、二回デッサンを試みたのだけれど面白くなくて通うのを止めてしまった。一度だけ飲み会に参加したことがあった。そこに賑やかな男がいてそれが水沢パセリだった。ようするに青山研究所は絵を描くためというよりも、一種の溜まり場になっているらしくそれはそれで興味深かったのだが、それきりになってしまった。
それから時間が経って、雑司ヶ谷から経堂に移り住んでしばらくしたのち通りを歩いていたら、向こうから見覚えのある男が近づいてきた。
じっと見ていたら向こうも気がついたらしく、互いにアッと声を上げてそれから互いの下宿先を指差したのであった。
あまりに近いから毎日のように行ったり来たりした。
そうこうしているうちに、プロテスタントの教会が出来上がったのである。

さて映画「塩狩峠」についても少しだけ触れておきたい。
調べてみたら、音楽の木下忠司と脚本の楠田芳子は兄と妹であることを知った。
ともに静岡は浜松の出身であることも。
この二人の兄が、映画監督の木下恵介である。
木下恵介が監督した映画やテレビドラマの音楽の大半を実弟の木下忠司が担当していた。
たとえば1957年公開の「喜びも悲しみも幾歳月」。
この主題歌は、映画とともに大ヒットした。
テレビドラマでは、TBS系列で1970年~71年にかけて放映された木下恵介アワーの中の「二人の世界」。あおい輝彦歌う同名のこの主題歌もドラマとともにヒットした。
このテレビドラマの主人公は、竹脇無我と栗原小巻。栗原小巻の弟役がソロに転じたばかりのあおい輝彦であった。あおい輝彦は、このドラマ出演の3年前まではある4人グループの一員として活躍していた。いわゆるアイドルであった。

  どこまでも尾を引くようについて回る固有名詞が顔を出すとき