マックに話しかける(晩年通信 その23)

室謙二

  背中が痛い

 少し前の晩年通信で、背中が痛くなったと書いたけど、それは何とかなった。何とかなった、といってもけっこう大変で、医者に言われた体操とかクスリも飲んだ。背骨の十番目と十一番目の ディスクが神経を刺激しているとかで、そこに注射針をさして麻酔を入れた。背骨にプスリと注射するのは怖かったけど、平気なふりをしていたんだ。
 老人がビクビクしていたら、だらしないと思われるから。だが幸にしてたいして痛くなかった。これで背中のトラブルはとりあえず解決した。またいつ出てくるか、分からないけどね。
 その次に膝が痛くなった。これは古傷だ。
 二十歳ぐらいの時にスキーで膝を痛めたのだけど、それが関係してるのかな。志賀高原の上の方のアイスバーンで、格好つけてターンして膝からアイスバーンに落ちてひねって(記憶を探るとそんな感じ)、あれ以来、十年おきぐらいに痛くなる。
 まず自宅の階段が危険です。特に降りるとき。今回も二回ほど、階段を降りているときに、突然に左膝に強烈な痛みが来て、女房が見ている前で階段から滑り落ちてしまった。格好悪いんだ。だから今は、自分の膝を信用していない。
 一日に二回、近所を三十分ぐらい散歩するが、必ず両手に、二年前に亡くなった姉さんがネパールのトレッキングで使っていた、スキーのストックみたいな杖を持っていく。注意を払わないでさっさと歩くと、突然の痛みで転んだりする。だけどストックがあれば安心。
 それに柳田国男がどこかに書いていたが、杖を持った散歩は楽しい。 杖で足元の植物を触ったりして観察する。散歩の途中で因縁つけられたり、金をよこせと言われたら、地面に刺さる部分のゴム・カバーを取って、尖ったところで戦うのです。そんなことはないのだけど、そう考えて歩くのはけっこう楽しい。
 ときどき両手にストックのような杖を持った人に出会うと、同志に会ったようにうれしくなる。

 そうしたら今度は、左手の親指が痛くなった。その前にまた偏頭痛が始まったのだけど、これはいつものことだから除外する。
 つまり前に晩年通信を書いて以来、あちこち、背中と膝と左手親指が痛くて困ったことになったのです。老人になることが、痛いことになるとは知らなかった。

  親指が痛くてキーボードが打てない

 痛くなった指を眺めてみる。
 親指だけ横に突出しているね。これには特別な機能がある。
 さっき散歩の途中で、いつも出会う猫(友人なんだ)の指を観察したけど、ずいぶん人間のものとは違う。
 この親指のおかげで、人間はものを掴むことができる、これは人間の進化に関係しているらしい。昔エンゲルスを読んだときに、人間が木から降りて歩くようになって、手でものをつかんで道具にすることと親指の関係を読んだことがあった。ような気がする。記憶が定かではない。
 あやふやだから、興味がある人はGoogleで探して読んでください。親指と知能の発達は関係あるらしいと思いながら、痛くなった親指をながめている。
 しかし問題は、Macのキーボードが打てなくなったことだ。
 親指が痛くなって、左手だけじゃなくて右手の親指も痛くなって、キーボードが使えない。私は、五本の指を使って、だから両方で十本だけど、キーボードを叩く人間なのでこれは深刻。五五年前に、最初は機械式の英語タイプライター、それから電気式のタイプライター、それからコンピューター。つまり五五年間、十本指でキーボードを使ってる。まず何年か前に右手親指が痛くなった。それでスペースキーを使うのに左手親指を使い始めたが、今度はそれが痛い。両方の親指を使うのをやめて、人差し指から小指まで4本の指で、キーボードを使っているが今度は人差し指が痛くなってきた。

 キーボードだけじゃないよ。親指が痛いと、それに右手親指も痛くなると日常生活にはなはだしく問題が起きる。
 何かを手に持つときに急に痛かったり、着物を着るとき、それに料理の時も問題だね。重たい鉄のフライパンを持ち上げるときは、注意しなくちゃいけません。
 オムレツを作ろうとボールに入ったタマゴを箸でかき混ぜる。ボールを持った左手と箸を持った右手が痛いなあ。左手で玉ねぎを抑えて、右手に包丁を持ち、薄いスライスを作ろうと思ったら急に左手親指が痛くなって、間違えて爪のところに包丁がが当たった。それが2回もあり今は用心してるけど、指に当たったら指を切って血が出ていただろう。

  マックさんに話しかける

 医者に行ったら、レントゲン写真を撮られて、関節炎だと言われた。
痛みどめのクスリももらったし、自宅での治療法も聞いた。あまり劇的な治療法はないみたい。まず指を休ませろと言った。どのくらい?と聞いたら何週間か何ヶ月かだそうだ。それじゃあメールも原稿も書けない。
 だから何を使って(指を使えないなら)この文章を書いているの?というのは当然の質問で、マイクをつかってMacに話しかけてこれを書いている
 つまり音声認識だね。これが優秀なのには驚いた。MacとiPhoneを試したけど両方ともすごく良い。文章の前後を調べて適当な単語を入れてくれる。ほとんど修正をしなくても、修正は親指が痛いので人差し指で、矢印キーを動かしてバックスペースとか使った。それからまた口述する。
 文章を口述する時、口の中でモゴモゴと発音しない。口を開けて、はっきりと発音する、これが重要です。マイクを口に近づけた方がいいね。
 Mac付属のマイクでもいいけど、私は頭からかぶるヘッドセットを使っています。これはZoom用会議用として買ったもので、プロのオペレーターのようですよ。
 昔の作家は、万年筆を握って原稿用紙に長年書くので、やはり指が痛くなる。谷崎潤一郎も、晩年は指が痛くて口述していた。最初は奥さんに頼んで、後では秘書を雇って口述していたらしいけど、私は秘書の代わりにMacを使います。
 
 でもキーボードを使って文章を書くのと、Macに向かって話しかけて文章を書く文章を書くのでは、文体が変わるかもしれない。
 谷崎についての解説を読むと、谷崎は口述になっても文体は変わっていないと書いてある。「台所太平記」も「瘋癲老人日記」も口述に変わった後の作品だけど、私は以前のものと変わっていると思うが。
 もっとも、キーボードで打つことを諦めたのではない。
 今は痛いけど前より少し良くなってきて、親指なしの四本指、または人差し指の一本指打法で、キーボードも少しは使えるようになってきた。医者に言われた治療は一生懸命やっているよ。
 治療は一日一回、二分間ぬるま湯に手をつける。それから一分間冷たい水に手を付ける。
 それから二分間熱いお湯に手をつけて、一分間氷の入った水に。
 次に二分間熱くて手がつけられないほどのお湯に、一分間、氷がザクザク入った水に。
 最後には熱くて冷たくて、手が真っ赤になります。時計を見ながらこれをやっていると、ばかばかしくて愉快になる。
 それから医者にもらったクリームを塗りる。
 効果があるみたい。

 これから先、文章を全部口述で書いていくとしたらどうなるのだろう。
 文体が文章が、どれだけ変わるかわからない。この文章は口述で書いたけど、あまり変わっていないように自分には思えるけど。もっとも指を使って、編集している。
 長年文章を書いているのだから、そんなに変わらないか。