夏ならコロナは落ち着いているのではないか、そのころにはワクチンも打てているのではないかと思って、今年度の製本ワークショップは夏休み前の集中講義にしてみた。そう決めておよそ1年、感染状況は落ち着かずワクチン接種も間に合わなかったけれど、対面授業が中止にならなくてほっとした。例年のように何かと集めて手元や本を見てもらうわけにはいかないから、足りないところを各自で補えるように作業手順を記した資料をひととおり用意した。ふだんは配布の資料を作っていない。配るとみんなそればっかり見てその通りにしちゃうし、どんどん先に進んじゃうし、こちらも無駄話がしにくくなるし、いわゆる「失敗」も減っておんなじものがサクサクできてしまうから。
前もって決めた材料で実際に作りながら写真を撮って、それを見ながら要所要所を図にしていくが、慣れた作業ほど他の人にはわからないポイントに気づかないし、それを防ぐためにとにかく丁寧に追うとかえってわかりにくくなる。何につけ手順や工程の図解を見るのは好きだけれども、気に入ったものを書き写せばいいかというとそうでもないから、下手でも自分で書くしかない。それでもはなから「これに勝るものなし」と頼るのは、上田徳三郎口述・武井武雄図解による「製本之輯」(「書窓」アオイ書房 1941)の中の、和本の「角裂(かどぎれ)の貼り方」。小さな紙を角にあてて1、2、3……、親指・人差し指・中指をどう添えて、その指のどこにどう力を入れるのがコツなのかがよくわかる。しかも、楽しげ。指先しか描かれていないのに、明らかにみな弾んでいる。
「製本之輯」は2000年に「本とコンピュータ」がHONCOレアブックス3『製本』として復刻していて、監修した紀田順一郎さんがこう書いている(p103)。
〈発案者が志茂(太郎)であったか恩地(孝四郎)であったかは不明であるが、志茂が上田徳三郎と連れ立って武井のアトリエを連日訪問し、そこで談話の口述筆記が行われた。上田が実演の材料を持参しながら製本作業の説明をすると、武井(武雄)が図でメモをとり、志茂が一語もらさじと談話の筆録を行った。出来上がった原稿と画稿をページごとに一致させるには、原稿の字詰めをあらかじめ印刷所に割り付け、図版のスペースをとっておいて、そこに画稿をはめこむなど、非常な苦心が払われたという。筆記が談話者の個性を生き生きと浮かびあがらせ、現代の造本批判にも及ぶあたり、書物ジャーナリストとしての志茂の面目躍如たるものがある〉
当時にして製本界の故老のお一人であった上田徳三郎さん(1879年生)の口調や手つきが生々しくとらえられていて、いつ見ても古びることがない。
ことしも授業の線装本の回でこの図をみんなに見てもらった。四つ目綴じを例に基本的な構造と作り方は板書と口頭で説明し、実際にはこうき綴じをやってもらった。そしてこれまた線装本の話をするのに欠かせない資料、「アイデア」No.327( 特集:現代中国の書籍設計 2008 誠文堂新光社)を見せながら雑談をして、時間に余裕のある人にはオリジナル柄にチャレンジしてもらった。実は「和綴じ=四つ目綴じ=日本古来の独自の製本法」と思っている人は多くて、私もかつてそうだったから不思議ではない。ただ今は結構子どものころに学校や課外授業で「和綴じ」として四つ目綴じを体験することがあるようでとてもいいことなんだけれども、図らずもそこで興味をストップさせているのは惜しい。「アイデア」No.327の特集ページは線装本をイメージさせるデザインになっていて、呂敬人さんをはじめ中国のデザイナーが手がける現代版線装本や線装本的ブックデザインが満載だ。そしてこれまたいつ見ても刺激的。
それにしても――ことしの学生は集中度が高かった。マスクのせいもあるのだろうか。特にかがりは、リンクステッチも交差式ルリユールもミニ本かがりも、ほとんど一度私の手元を見ただけで席に戻ってその作業を再現したのには驚いた。あまりの早さに「なんでできたの?」などと聞いてしまって、首を傾げつつ「見たのでわかりました」と返されてまた驚いた。もしかして、動画に見慣れているからか。なにしろ彼・彼女らは毎日圧倒的に動画を見ている。私の手の動きだってとっさに四角く切り取って、つまり私を生ユーチューバーにして、わりと大きな画面で集団閲覧しているという態ではなかったか。ピタッと止まった印刷物から多くを得てきたわれわれとは、目玉の動き・脳の動きが違っているのは間違いない。流れるように記憶して流れるように再生して、流れるように自分の身体を合わせることが無意識にできているのではないかしら――。
実際、いろいろなものづくりの手順を知るすべというのもとっくに図解から動画へシフトしている。言語に関わりなくあふれる中から好みのものを探し当てる楽しみがあるし、時間を選ばないしお金もほぼかからないのだから当然だ。優れた手順図解を載せてある本も学生に見てもらうのだけれど、作り方を知る目的でそれらを必要とする人が減るのはしかたのないことかもしれない。映像で見たとおりを自分でやっても書かれたものを見てやっても完成したものは同じになる。でもそこにいたるまでのそれぞれの体内における回路は明らかに異なっている。動画で見ると10分かかるものを、流れる作業から抜粋して絵と言葉をつないで再現して、かついくつかのコマを一覧させて把握させてしまうこともある図解というもののすごさやおもしろさは感じていてもらいたい。それぞれが洗練されてこれから長く残っていくのだろうけれど、人が極めた優れた手順図解量産の時代は過ぎた。