唐突に一枚の画像がスマホに送られてきた。それは鶯谷の線路沿いにある居酒屋「信濃路」を斜めから捉えた写真だった。最近、急に西村賢太にはまった夫が、かの作家がその店に通い詰めたと知って聖地巡礼をしてきたというわけだ。小豆色の看板に「信濃路」と大きな横書きがあり、そのかたわらにはお食事処、そば・うどん、カレー、うまい酒、呑み処、おかずといった言葉が踊っている。もとは立ち食い蕎麦屋だったが、どんどん品数を増やして、朝でも飲める居酒屋として地元で重宝されているときく。もっとも写真を撮った夫は昼間から店の中に入る勇気はなくて、遠くからそっと写真だけ撮って、すごすごと帰ってきたのだが。
先月末の段階で、夫は西村の芥川賞受賞作「苦役列車」一冊しか持っていなかった。ところが1ヶ月後の今では西村作品が20冊以上積んである。さらに買えそうな作品は片っ端から手に入れようとしているらしく、郵便ポストにはしょっちゅう古書店から取り寄せた西村作品が届く。入手できないものは図書館で借りることにしたらしく、今の家に転居してから長年、ただの一度も作ると言わなかった図書館利用カードを作った。それだけならまだよいのだが、隙あらばまるで親戚か、片思いしている中学生のような顔つきで作品の中のエピソードを嬉しそうに語り始めるからまいってしまう。西村賢太の作品内に頻発する文章をアレンジして、「根が〇〇にできてる〇〇(人名)は…」といった口調で話しかけてくるのにも、そろそろつきあいきれなくなってきた。関連図書も蒐集しはじめた。西村を特集したムック本や、彼が敬愛した田中英光と藤澤清造の作品集、そして玉袋筋太郎の著作まで読み漁っているのだ。好きな人の好きなものを知りたいというわけだろうか。こうなると推し活というより、ほとんど恋だ。
西村賢太の生きた道のりは決して平坦ではなかった。子供の頃は経営者の父のもと家族とともに平穏に暮らしていたそうだが、父親の起こした連続婦女暴行事件により人生が暗転する。一家は離散、彼は中学を出ると、知恵も学歴もないままに自活を始めなければならなくなった。風呂もトイレもない部屋に住み、日雇いの肉体労働などで糊口を凌ぐ。だがまだ15~6の子供である。たったひとりで社会に放り出されても生活のしくみも頑張りかたもわからなかったのだろう。人とのコミュニケーション能力不全に加え、怠惰で根性もないので、手元の金が尽きても気分が乗らなければ仕事にも行かない。劣情を持て余してはわずかな給金をはたいて買淫に走り、宵越しの金は持たぬとばかりに日当を使い果たすまで鯨飲馬食する日々。借金も家賃も踏み倒し、同棲した女性にはその家族にまで金を無心し、暴力をふるったあとは甘えるDV男の典型のような振る舞いをくりかえす。
今やどんな娯楽にも金を出さねばならない世の中になっている。では金のない人間はどうすればよいのか。金のない若き西村賢太にとって最高の娯楽は本だったのだ。彼はつらい労働の終わりに古本屋に立ち寄り、3冊100円などで投げ売りされている本を買って貪るように読んだという。戦中戦後はいざ知らず、飽食の現代日本で、世の不条理を肌身に感じながら生き抜くために、本をこれほどまで頼みにせざるを得なかった人があるだろうか。アルファベットもろくに読み書きできない西村が、あの驚異的な筆力の素地を固めることができたのは、こうした壮絶な読書体験があったからにほかならない。西村は自分自身を小説のモデルとして世の中に差し出した。そして恥と屈辱にまみれたまま社会の暗部に追いやられ、忘れ去られた人の生活、貧すれば鈍すを地でゆくような負の沼に足を取られた人の思考、聞くもおぞましい最低の日々を、中学生のままで止まってしまったような純情な心根と、世にも格調高い文体で綴ったのだった。小説を書き始めて20年弱、作家として生活も軌道に乗ったのち、54歳で急逝した。だが、彼が残した数々の作品は、人生に倦み諦めかけた人たちを、これまでもこれからも救い続けるのだろう。
わが夫はすっかり西村賢太作品の中毒になってしまった。少々哀れに思った私は「こんど信濃路、行ってみる?」と声をかけている。気楽に「うん」と言えばよいものを、「西村賢太が座っていた席はお手洗いの近くなんだって」「秋恵(小説内に登場する西村賢太の分身「北町貫多」の同棲相手)と一緒に信濃路へ行った時に、女の人を怒鳴りつけている醜悪なお客さんを見かけて、あれは自分そのものだと思ってハッとしたんだって」などと、西村作品エピソードで迂回してくる。彼の愛した太陽たる「信濃路」に、おいそれと近づいたら火傷するとでも思っているのだろうか。