カイシャをお払い箱になったら、我が家には古いノートPCしかないことに気付いてしまった。11インチのMacBook Airというやつだ。小さくて薄くて軽くていいなと思い、十年以上も前に買ったのだが、二、三度触ってそのまま放ったらかしにしていた。家にいるときはPCなんて使わなかったからね。
勤め人の頃は、Windows一辺倒だった。なぜそんなおれが11-inch, Early 2014のMacBook Airなど買ってしまったのか。きっと周りのカメラマンやデザイナーがみんなMacを使っていたからだろう。クリエイターならMacなのだ。カッコイイじゃんね。当時のおれはそう思った。
だがすぐに放置してしまった。理由は「Windowsとは全く違う操作に手間取る」という、至極真っ当なものだったような記憶がある。
ところが家でもPCが必要な状況になり、十年ぶりに開けてみて、いままで使わなかった理由が違っていたことを思い知らされましたね。
画面が小さすぎるのだ。なんたって11インチですよ。この十年で遠近両用の眼鏡レンズを何回取り替えたことか。おれの老眼は飛躍的に進んでいるのだ。
見えない。目を凝らしても文字が見えない。遠近両用の眼鏡なので、極限まで顎を前に出して画面にかじりついても見えない。3分間ディスプレイを見つめていたら、アタマの奥が痛くなってきた。
カイシャの机では、ノートPCに大きなモニターが設置されていたので、キーボードはノートのものを叩き、ディスプレイはもっぱらモニターを眺めていた。あのモニター、24インチはあったはずだ。それがいきなり11インチだ。
十年前、なぜカネをケチったのだろう。せめて13インチ、いや、15インチのタイプを買えばよかったはずだ。我が老眼の進み方を計算に入れていなかったおれがバカだった。
「Windowsの新しいやつに買い替えればいいじゃないですか」
もっともだと思うが「二、三度しか触っていない」という事実がおれを躊躇させた。モッタイナイではないか。十年間みっちりと使い倒したのならばすんなりと買い替えるのだが、まだまだ使わないとバチが当たるよ。
「モニターを別に買えばいいじゃないですか。そんなに高くないし」
もっともだと思うが、おれの汚部屋は足の踏み場もなく、机の上は本やCD、DVDが積み重なっていて、モニターを置くスペースなどない。ついでに言っておくと、机の椅子にも座れない。椅子の上にも本が積み上がっているからね。なめんなよ。
おれは十年ぶりに11-inch, Early 2014のMacBook Airの蓋を開けた。最初で躓いた。パスワードを覚えていない。アレかなコレかな、それともソレかなと打ち込んでみたが、すべてハネられる。ようやくPCの起動に成功したときにはすでに日が暮れていた。
「今日はこれくらいで許してやるか」
おれは2014年型のMacBook Airにそう言い放ち、蓋を閉めた。どうやらテキは文字通り「古豪」のようだが、こちとら無職の身、時間だけはたっぷりあるのだ。明日またじっくりと取り組めばいい。
翌日、よせばいいのにおれはまた古豪と対峙した。十年間の放置によって、macOSがまったくアップグレードされていない。それを最新の状態にしなければならないのだ。
いまおれはmacOSと書いたが、じつはその言葉の意味をまったく分かっていない。どうか許してほしい。なんとなく分かるのは「十年間穿きっぱなしの古いパンツはいますぐ捨てて、新しいパンツに穿き替えないと、アンタとは付き合ってあげないからね」というようなもんなのだろう。気持ちは分かる。
この文章を書くために調べてみたら、OSとはオペレーティング・システムの略で、PCやスマートフォンの基本ソフトウェアのことらしい。キーボードの入力やアプリの起動を管理して、ユーザーがデバイスをスムーズに使えるようにするんだってさ。片仮名が多くてよくわからん。おれにとって「オーエス」は綱引きのときの掛け声でしかない。
ところがこのOSのアップグレードが手間取った。テキはこの十年間、おれの老眼よりも高度な進化を遂げていたらしい。おれが十年間で老眼レンズをアップグレードしたのは三回ほどだが、macOSは一、二年に一回のペースでヴァージョンアップしていたようだ。ということは単純計算しても、十年前に比べて少なくとも五段階は進化していることになる。しかもおれに黙って、おれの許可もなく、しれっと。これでは裏ガネ議員と同じではないか。
しかし、この裏ガネ議員を登用しないと、我が11-inch, Early 2014のMacBook Airは機能不全に陥るのだろう。泥舟のPCは落ち目の党と連立してまでも、機能を維持しなければならないのだ。
おれは「エイヤッ」とばかりに、一足飛びに最新のmacOSをインストールしようとしたが、これができなかった。
「このPCは古いけんね。そないば新しいOSは対応できんとよ」
というのが、十年前のPCの言い分らしい。つまりは、
「もう買い替えなさいね。諦めなさいね」
ということなのだろう。それに対してのおれの答えは、
「嫌だ。この環境でなんとかする」
だった。
森のクマだって、食べるものがなければ仕方なく住宅地まで降りてくるのだ。おれもPCを買い替えるカネが惜しければ仕方なくこのPCでジタバタするしかない。
おれは一段階ずつ新しいヴァージョンのOSをインストールしていった。膨大な時間がかかった。だがついに、
「ここから先は、この古いPCではあきまへん」
という通告が表示された。連立はおろか、閣外協力もできないという。完全な関係解消だ。数か月後の日本の政局のようだ、とおれは思った。
「裏切り者め」
おれはがっくりと肩を落とした。
いまおれは「がっくりと肩を落とした」と書いたが、実際には肩を落としていない。自慢しても「胸を張った」こともないし、希望に「目を輝かせた」こともない。おれはこういう慣用句が嫌いだ、と眉をしかめている。
話を戻すぞ。
最新のヴァージョンにアップデートできないPCを前にして、おれは思った。
職場で女性を「○○ちゃん」と呼んでセクハラ認定されたヒト、「小学生でも分かるでしょう」と発言して辞任した地方放送局の社長さん、どれも同じだ。最新のコンプライアンスにアップデートできていなかったのがイケナイ。
でもね、おれなどはもっとヒドかったのですよ。
年下の同僚には男女関係なく呼び捨てだった。敬称略だ。ちゃん付けすらしなかった。
「小学生でも分かるでしょう」などというジェントルな言い方はしなかった。「ウチの犬でも一回言えば理解するぞ」と言っていた。アブナイアブナイ。訴えられなかっただけで、おれがいちばんアップデートしていないではないか。そう、この十年前のPCはおれ自身なのだ。
ところが朗報が舞い込んできた。PCに詳しい奴に訊いたら、最新のOSがインストールできなくても、十年前のPCは作動できるというのだ。Wordも打てるし、メールも送信できるらしい。アプリによっては何らかしらの不都合は生じるかもしれないが、とりあえずは使えるとのことだった。
寿ぎではないか。こんなおれでも「なんとか使える」のだ。
いいよ、Wordとメールが使えれば。じゅうぶんですよ。
こうしておれはなんとか十年前のPCでこの文章を打ち、どうにか保存して、おそるおそるメールで送信する。ディスプレイに浮かんだ文字は小さすぎて見えない。誤字脱字はないだろうか。WindowsとMacではメールのやり方も違う。ちゃんとこの文章は添付されているだろうか。無事にメールは送れているのか。いや、もうどうでもいい。アタマの奥が痛くなってきたので、推敲ナシでおしまいにしよう。
さあ、今日最後の曲になってしまいました。聴いてください。
お酒はぬるめの燗がいい
肴は炙ったイカでいい
流行りのOSなくていい
ときどきメールが打てりゃいい