話の話 第1話:寝返りはうたない

戸田昌子

私の母方の祖母は、名前はコンさんと言って、大正時代の生まれ、福島の出身である。曽祖母は早いうちに亡くなってしまい、その後妻さんのもとに次々生まれた子どもたちの家には居づらかったようで、18歳で東京に出た。手に職もないので、まず准看護婦になり、順天堂病院で働いていたが、その後、試験を受けて看護婦になった。学校を出ていないので、注射を練習する機会がない。そのため病院の中で一番上手だと言われる先生の横に張り付いて、その指先を睨みつけながら自己研究を重ねた。ある日、「お前、注射が打てるか」と医師に尋ねられる。なぜか「打てます」と即答した祖母は、迷いのない手つきで支度をして患者さんの腕にブスリ。その注射針が見事に血管をとらえ、それ以来、「注射の得意な看護婦さん」として信頼されるようになったそうである。

わりあいに大胆な性格の人だったらしい、というのはこのエピソードからも知れるが、人にへこへこするようなタイプではもちろんなく、遠慮がなくて口さがないところもあったらしい。ある日のこと。とある医師、もうそろそろ頭頂部のヘアが後退してきていて、それをどうにかうまく見せようと、耳の脇側に僅かに残ったヘアを、櫛とポマードで撫ぜあげてご出勤。それを見た祖母が一言、

「あーら綺麗に並んだ夜店のステッキ」

「おまえは全くもう!」

となったらしいが、これにはきっと解説が必要でしょう。ここで言われている「夜店のステッキ」というのは、木村伊兵衛の写真などにもしばしば写りこんだりしているもので、むかし、縁日の夜店などで売られていたステッキのことをさす。見栄え良くきちんと並べられた夜店のステッキのように、束状の髪の毛が均等にぴしりと整列したさまを述べた表現で、電飾のキラキラした夜店の風情をたたえた、なかなか風雅な表現であると言える。朝っぱらから開口一番、言われた方はたまったものではないが。今で言うなら「バーコードヘア」となるところ。

しかし私の記憶のなかにある祖母は、そういう口さがないおしゃべりをするような人ではなく、ただひたすらに、ニコニコした人。しばしば、実家の印刷屋の土間に置いてある、背丈ほどもあるペーパーカッターにぶら下がって紙を切っている祖母であった。祖母の足が宙に浮くと、ざり、という音を立てて紙が切れる。面白いものだとよく見惚れていた。今、あらためて写真を見てみると、小柄で綺麗な足をしていて、ハイヒールがよく似合っている。祖母は従軍看護婦として大陸へ渡っており、当地で紹介する人があって写真師の祖父と結婚した。北京に住んでいたころは、ダンスホールが好きでよく踊りに行っていたとか。物おじしないので軍人さんに好かれて可愛がられた、という話が伝えられている。

ある日、母方の叔母さんがうちに来て、お布団を洗ったのだ、という話をひとしきりしていった。お布団を丸洗いをしてくれるサービスがあるのだけど知っている?という話題で、その営業マンが家にやってきたのだと言う。「でも、何パーセントかは縮みますよ」と営業マン。「あら、お座布団みたいになるのかしら?」と叔母。「いや、そんなことはないですけど、ちょっと固くなります」「あら、おせんべみたいにパリパリになっちゃう?」「いや、そんなことはありません」「それなら問題ないわ、よろしくお願いします」とお願いしたのだそうである。叔母の話のなかでは、ふかふかのお布団は小さなお座布団やおせんべのように伸び縮みしてしまう。叔母のこういった調子の良さは、どうやら祖母ゆずりのようである。

お布団といえば、むかし、「せんべい布団」という言葉があった。いまや布団はどれも化繊で、潰れればぺちゃんこと言うよりただのヒラヒラ、せんべいにすらならないのだが、昔のお布団は真綿が入っていたので、潰れれば濡れせんべいのごとく芯のあるぺちゃんこになり、わりあい寝やすい布団であったという記憶がある。我が家は六人きょうだいなので、もちろんベッドを置くスペースなどはなく、毎朝毎晩、布団の上げ下げをしていた。シングル布団に子どもが二人ずつ寝るのである。私はすぐ下の妹と、このせんべい布団を半分ずつ分け合って寝ていたのだが、寝相の悪い子どもたちのこと、すぐに領域侵犯をしあってしまう。そのため足が少しでも中心線を飛び出してくると、相手の足を蹴りかえして押し戻す。しかし寝ぼけているので、ある朝、目覚めたら、妹を完全に布団から蹴り出していたことがあった。幸いなことに妹は眠りが深いので、足で転がしてそのまま布団に押し戻し、私の過失はなかったことになった。こうしたさまざまな経験を経て、私は直立不動で眠る癖がついた。いまだに寝返りはうたない。妹の寝起きは後々になるまで非常に悪かった。

寝起きエピソードと言えば、ピアニストの姉。私のきょうだいは全員、母の希望で、それぞれにピアノを習わされたのだが、一人最後までピアノを続けて音大へ行き、結局、ピアニストになってしまったのが一番上の姉である。ある日、妹が姉を起こしに行く。姉がなにかもごもご言っている。妹が「だめよ!ようこちゃん!小指動かしたってダメ!起きて!」叫んでいる。なんのことかと思ったら、(起きてるよ……もう大丈夫だよ……ゆうちゃん……)と声に出して言いたいのに、眠たくてなかなか声が出ないので、仕方なく指を動かして合図しようとしたらしい。しかしその前夜、寝る直前まで左手小指のトレーニングを続けていたので、なぜか一番最初に左手の小指が動いてしまったのだという話だった。姉は朝ごはんをもりもり食べながら「さすがのピアニスト根性」と自画自賛している。妹はそういった他人の過失を、目覚めている限りは、決して見逃さない。

そういえば、私は布団を燃やしたことがある。私が大学生になったころ、姉がフランスに留学するというので家を出、そのあと二番目の姉が自活のため家を出て、兄と弟は別々の部屋をもらったので、私は子ども部屋で一人寝起きするようになっていた。ある時、思いついて、友達を呼んで部屋で鍋パーティーをした。しかし部屋に換気扇がないので、部屋中に食べ物の匂いが充満してしまい、どうにもこうにも気持ちが悪い。仕方ないので、真冬の夜ではあるものの、窓を全開にして寝ていたが、さすがに寒いので、電気ストーブを布団の脇に置いていた。それが間違いのもとであった。この電気ストーブは、アルミホイルを乗せて卵を割れば目玉焼きができるほど加熱してしまうような電気ストーブである(実験済み)。これを布団の脇に置いていたために、次第に掛け布団が加熱され、真綿に火がついて、こもったような状態でジリジリと焦げ始めた。夜中、なぜかふと目覚めた私は、布団が妙に熱いことに気づき、ほかほかと熱を発しているその状況を見て、(困ったな)と寝ぼけた頭で考えた。布団が何かの拍子に一気に燃え上がることは知識として知っていたので、事は一刻を争うのはわかっている。ゆっくりと起き上がり、スタスタと廊下に出てコップに水を汲んできて、ジャッと布団にかけてみた。消えない。もう1杯。消えない。3杯目。消えてきた。4杯目。だいたい消えた。

問題はそこからである。親を起こして怒られるのは、大学生にもなった身としては、さすがに面倒くさい。そしてとても眠い。考えるのは後回しにして、とりあえず寝よう。と、そう思い、そのまま布団をかぶって寝た。そして朝。忙しいので、そのまま布団をたたみ、押し入れに入れて、出かける。それを毎日続ける。そのうち、布団は乾いてくる。そうだ、カバーを縫い直そう、と思いつく。端切れを探し出し、パッチワークふうのカバーを作って、ふわっと包んで完成。これで無事に何もなかったことになった。その後も、親に燃した布団のことについて指摘されたことはないが、彼らは全く気づかなかったのだろうか。いつのまにかその布団も処分されていた。私はいまだに直立不動で寝ている。